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2004年7月16日

服部 祐二さん(2)
双日システムズ株式会社 執行役員 兼 SI事業部長

服部 祐二さん服部 祐二(はっとり ゆうじ)さん
双日システムズ株式会社 執行役員 兼 SI事業部長
SE歴は10年以上。現在は事業部経営者として腕を振るいつつ、ハイリスクプロジェクトや先行投資型プロジェクトのプロマネ、主要顧客に対する営業担当としても活躍。


プロフィール:近畿大学農学部 食品微生物学科卒。大手食品会社、独立系ソフトハウスを経て双日システムズ(旧・ニチメンコンピュータシステムズ)入社

大企業から社員10数人のベンチャー企業へ

服部祐二さん

能登原
次に転職されたソフトハウスを選ばれた理由は?

服部
その会社が蕎麦屋の二階だったんですよ。社長は大手ベンダーをスピンオフした人で、私が入社したときは社員が12,3人でした。それまでは2400人くらいの会社で朝礼があるようなところだったから、もう全然文化が違うんです。みんな私服で来てるし(笑)。

能登原
それで、蕎麦屋の二階が決め手になったんですか。

服部
そう。蕎麦屋の二階にあって、面接の後にカツ丼を出してくれたんですよね。「下から取るよ」って。

能登原
それはすごい。すっかり気に入られたんですね。

服部
適性検査も「やらなくていいよ」って言われたんですけど、「いえ、一応やっていただけますか」と言って(笑)、その結果も見ずに「とりあえずいつから来られるの?」という話になったんです。私は一種類の環境の経験しかないので、「いろいろな環境で経験を積みたい。すぐにお役に立てるとは思わないけれど」とは言ったんですけれどね。なんか気に入られちゃって。

能登原
将来についても安心感がある大手食品会社からベンチャーに、ということに関しては、抵抗感とかありませんでしたか?

服部
やはりありましたね。私自身というよりも、親がね、「何で一部上場の会社に入ったのに、わざわざ10人くらいの、上場していなくていつ潰れるかわからない会社に行くんだ」って。本当にそのとおり、後で潰れたんですけれど(笑)。何でそんなところへ行くんだってまわりが言いましたね。

ただ、元の会社にいてつらかったことはあったんですよ。情報システムユーザー企業のシステム担当のつらさが。やはり食品メーカーですから、食品を作る側のラインの人や営業で売っている人が主流というところがあったんです。情報システムは生産管理部の所属なんですけれど、そういう間接部門は、「工場の中にいる生産部門とお客様に対面している営業部門の、歯車と歯車の間にさす油」だ、と言われたのを今でも覚えていますね。確かにそのとおりなんだけど、ずっとそこにいると、いろいろな意味でのつらさがあったんです。営業はこの商品をすぐ納品しないとお客が逃げるといっているのに、工場では機械が故障して動かないという状況で間に立たされるとかね。「それはコンピュータのせいじゃないだろう…」と思いながらも、そういう生産管理全体をやりながらの業務だったわけです。コンピュータ周辺のよろず管理者みたいな。

能登原
じゃあ、もう外に出ちゃったほうがよいと。

服部
ええ、ちょうどコンピュータが面白くなってきた時期でしたからね。

能登原
コンピュータの仕事でやっていけるという自信がご自分の中で固まった出来事ってありますか。

服部
いや、このときはなかったですね。逆にこんな経験しかしていなくて、コンピュータを専門にやっている会社に採ってもらえるのだろうか、という不安はありました。でも当時はまだ未経験でも採っていた時代だったんです。で、何社も何社も受けて、半分試しの、半分どうしようかな、というところで決めてしまった。

こちらのスキルも適性検査も何もなく、面接で「会っただけでわかるんだよ」みたいな言われ方して、蕎麦屋からカツ丼まで取ってくれて、そこまで言ってくれるなら一生懸命やってみようかなという気になったわけです。それに同じ方向に向かって仕事ができるっていうのかな。ひとつの会社の中で、間接部門とか製造とか営業とかあって間に挟まれる苦労よりも、10数人とはいえ同じ方向に向かって、同じ種類の苦労をして、同じ悩みをお互い解決しあっている感じがしたので、小さな会社のほうが面白いなと思ったんです。私が退職する前、ピーク時には社員は50人を超えましたけどね。

能登原
最後はそこで課長までやられた。

服部
そうですね。そのときで部下が10人くらいだったかな。この会社には7年10ヶ月いたんですよ。

上流設計から関わり、技術や知識を吸収する日々

服部祐二さん

能登原
ソフトハウスに転職して最初にやられたお仕事が、航空会社のツアー予約システム開発だったんですね。

服部
当時飛行機のチケットの予約システムはあったし、ホテルの予約も単体ではあった。その組み合わせで、飛行機の座席+ホテル+レンタカーとか、+オプショナルツアーとかを作ろうということだったんです。これがありがたいことに、いわゆる要件定義というか外部設計というかそこから入れてもらえました。そんなのやったことないじゃないですか。

能登原
すごい、いきなり上流工程ですね。

服部
「えっ、最初はプログラミングの技術を覚えるんじゃないの?」(笑)みたいな感じでした。ユーザーから聞いたり、現行のシステムをオペレーターになって再現して手順を確認したりとか、「コンピュータのシステムってこうやって作るんだ」という勉強になりましたね。
そのときの私の上司は女性だったんですが、国立大学の理学部数学科を卒業した生え抜きの人で、社長の同期。今60歳ちょっとかな。いまだに大手ベンダーの契約社員をしていると聞いています。すごい人で、何を質問しても答えてくれるんですよ。私はまだコンピュータは半分素人同然じゃないですか。だからいろいろ質問するんですが、必ず答えてくれる。

能登原
コンピュータが日本に入ってきた頃のプログラマーの女性には優秀な人が多いですよ。日本のコンピュータ技術者のルーツみたいな存在で。

服部
その人にいろいろなことを教えてもらいましたね。要件設計が終わって予算取りになったときに、その女性上司の下でお手伝いに入っていたので、しばらく手が空いたんですね。違うところで修行してきなさいということで、数ヶ月銀行のディーリングシステムのほうにプログラマーとして行っていました。それでまた戻ってきて詳細設計以降の開発をしました。要件定義から情報を知っているので「やりたいことはこうなんだから」と言えるようになっていたのはありがたかったですね。私より当然プログラミングができる若い子がプログラマーとしてやって…。

能登原
最終的には何人くらいのプロジェクトだったんですか。

服部
15人くらいですね。開発は8~10ヶ月くらいだったかな。それが終わったあとに、その航空会社のシステム開発・保守を担当している大手ベンダーに女性上司と私が移りました。飛行機と空港のメッセージのやり取りをするシステムをやりませんかとオファーがあって「じゃあやります」ということになったんです。航空会社のメッセージスイッチングシステムですね。たとえば千歳空港には今雪が降っているから、別の空港に降りる、みたいな。
このときは一応サブリーダーでした。下に学校を出て5年目くらいの要員を何人かつけてもらって。いまだに動いている基幹システムの構築プロジェクトなんですが、それのメッセージスイッチング側の担当ですね。で、システムダウンしたんですよ。本番稼動初日に…

能登原
えっ…そうなんですか。

服部
NHKのニュースでも流れてしまいました(笑)。メッセージスイッチング側は全然問題なかったんですが、発券業務のほうでコケたんです。

能登原
一番クリティカルなところですからね。航空会社や公共輸送機関の同様のシステムでは。

服部
いろいろあったんですよ。テスト機で自分のクレジットカードで手続きしてみたら、本当に引き落とされたりとか(笑)。それからは怖いので専用のクレジットカードを会社において置くようにしました。

飛行機の座席って、ご存知のように何列のABCDEFGHJってついているじゃないですか。アルファベットのIとOって、コンピュータの世界では数字の1と0と紛らわしいのでわざとはずしているんです。飛行機の座席もそうなんですよ。で、よく新婚さんがHとJの席が来たのをみて、カウンターで「何で隣じゃないんだ」って文句を言うらしいですよ。Iの席があると思っちゃうんです。
そのロジックを組み間違った子がいてね、翼の上まで席を探しに行った(笑)というのが原因だったんです。

能登原
鉄道会社のシステム構築では「プロジェクトX」になっているくらいですからね。発券業務は難しいですよ。

服部
そういうわけで初日は大変だったのですが、だんだん落ち着いてきたんです。でも不具合がいくつかあって、どうしても落ちる原因がわからない。結局あるタイミングで発生するデータベースのデッドロックが原因だったんですけどね。そういうのを見つけたりしていて、だんだん落ち着いて暇になってきた。で、業務端末でゲームを作ったりしていたんです。最初は一番簡単なトランプゲームから作って、競馬ゲームとか。

能登原
なるほど(笑)。余裕ですね。

服部
このときに私の部下だった子が、いまだにその航空会社にいるんですけれど、「あのゲームのソースはどこにあるんですか」と聞かれる。そんなのもう知らんって(笑)。

能登原
そのころはだいぶ自信がついてきたんじゃないですか。

服部
そうですね。自信もついてきたし勉強する余裕もあって、資格試験を受けてみようかとか、若い子にも受けさせようか、勉強会を開こうかとか考え始めました。軽井沢の別荘に行って、半分勉強会、半分飲み会をやったりしました。一応リーダーだから、最初に受からないといけないと、ちょっと勉強して受けて。受かったんでよかったです。

能登原
確かにあのころは今よりも、情報処理技術者試験の「熱」が高かったですよね。

服部
ええ、高かったです。ベンダー系の資格ってほとんどなくて、それを持っていると仕事の上ですごく有利だというのがありましたから。情報処理技術者の二種取って一種取って特種取って、みたいな。

能登原
服部さんもそうですか。僕もその順番で取りましたよ。他になかったですからね。逆に言えば今よりもわかりやすかったかもしれない。特種をもっていれば、その人はかなりできるSEだと。

服部
この時代のSEって、何でもできる人だったんですよね。今のようにネットワークだけとかデータベース屋とかいうのではなく、全般にできる。私に教えてくださった女性の先輩も何でもできる人だった。ああいう人がSEだと私はずっと思っていたんです。今の特化型の人たちをSEと呼んではいけないんじゃないか、と私は思います。SEじゃなくてテクニカル・エンジニアですよね。

能登原
当時、特種を持っているということはシステムなら「何でもわかりますよ」、ということの裏返しでしたからね。今は細分化されて、上流工程をいったい誰がやるんだという話になります。以前は一人の中に全部あったのが、専門が細分化されたために、その上に立つまとめ役の人が必要になってますね。当時の開発のほうが面白かったかも。

服部
面白かったですけれど、それでも3年同じところにいると飽きるんです。大体どんなに大きなシステムでも2年もあれば把握できて、3年目からそういう、「遊び心」が出てきて、勉強会とか始めてしまう。その航空会社のプロジェクトも3年くらいで、「別の仕事に回してほしい」と頼んだんです。

能登原
次が信託会社の投資信託業務システムですね。

服部
これは種類があって大変でした。自分で新聞を読めば株とかは感じがつかめるけれど、公社債とかはピンと来ないし、コマーシャルで見たことのある商品のほかにも山ほどあるんですよ。しかも利息や簿価評価の計算方式がすごく複雑なんです。株と違って満期があるし、そこまでの利息のつき方とか、終わったときの償還とか。国債だけでもたいへんなのに、社債になってくると、最後に株式に転換するとか、新株を引き受ける権利のあるワラントとか、いろいろあって、しかも外国のものまで混じってくるんですよ。

投資信託って、いろいろな商品に投資するんですけれど、ほとんどが国内の公社債にプラス一部株や先物・オプションで運用している。そのへんの業務知識を、本を買い込んで結構勉強しましたね。とにかくやっていると知らない用語が出てくるので、勉強しないとついていけない。株式だけならともかく、公社債は勉強しないとだめでした。

能登原
このときは上流設計をやられたんですね。

服部
そうです。これはPL1で開発するといわれたんですが、開発者にPL1を知っている人が一人もいなくて、そのかわりCOBOLでこういうシステム開発を経験していた人たちだったんです。だからテクニカルなところを教えて、逆に業務知識を教えてもらって、というやり方をしました。うちの社員が5人と、そういうアプリケーションを10年くらいやってらっしゃる独立系のソフトハウスの10人ぐらいを組み合わせて合同チームでやったんです。

能登原
二つの会社の混合チームだったんですね。

服部
ですからプロジェクトマネジャはそちらの会社で立ててもらいました。

能登原
じゃあ、服部さんは自社のチームのリーダーですか。会社でも課長代理ですし、このころからリーダー役になっていますね。

服部
そうですね。それまで勉強会のリーダーをやっていたのと、あとは年代的に、うちの会社は私より年上の人が、社長と副社長と、私の先生役の女性上司以外はもう一人二人しかいなかったんです。

能登原
でも、まだお若いですよね。30歳ぐらいですか。それで5人、10人の部下を持っていたのはすごいですよ。

服部
29歳ですね。この時は割と自信を持っていました。実はこのシステムが無事稼動したあと、私にとってつらかった時期が来るんです。

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