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2005年4月15日

島本 栄光さん(1)
KDDI株式会社 情報システム本部 システム企画部
管理グループ 課長

島本 栄光さん島本 栄光さん
KDDI株式会社 情報システム本部 システム企画部
管理グループ 課長
1988年DDI(現KDDI)に入社。一貫して情報システムに携わる。2001年10月のKDDI社合併においては、システム統合に関する事務局として各種調整にあたった。現在は情報システム本部の人材育成・教育研修を担当。
著書に「情報処理教科書 システムアナリスト」(翔泳社)、「上級シスアド合格への道」(編著:同友社)、「風雲!シスアドの現場」(編著:秀和システム)がある。
上級システムアドミニストレータ連絡会 副会長

開業間もないDDIで情報システム部門に配属される

島本栄光さん

能登原
この対談では理論やスキルの話よりも、本当にプロマネとして「できる」人、いわゆるベンチマークになる方々を選ばせていただき、キャリアパスについてお話をお聞きしています。優れた先輩PMが「こうやって成長してきたんだよ」「実はこんな難しい局面もあった」「失敗の悔しさをバネにしてがんばった」等々、ご自分の経験から率直に語られるお話が一番読者の心に響くし、それを参考にして自分も成長していこうと思っていただけるとうれしいと考えています。ですから、人材育成はこの対談の重要なテーマの一つでもあります。

島本さんには弊社の横尾が大変お世話になっており、人材育成について相当に熱い思いを持っていらっしゃるということをお聞きしています。そこでぜひこの機会に、島本さんがどのように仕事を通じて成長されてきたのか、そしてなぜ人材育成に深い関心をお持ちになるようになったかをお話いただきたいと思います。
まず、現在のお仕事に就かれたそもそものきっかけですが、昔からシステム関係の仕事を目指されていらしたんですか。

島本
いえ、そういうわけではないんです。概略を申し上げますと、私は1988年に学部新卒で旧第二電電(DDI)に入社をしました。当時DDIは、我々新入社員が127名で、それを含めても600名ちょっとくらいの規模の会社でした。私が入社したのは開業してすぐの頃で、これからエリアを拡大して、先行している通信事業者に対抗していこうという時期でした。ですから同期のメンバーは営業所や支店、あるいはお客様の問合せ対応をするコールセンター等の部門にたくさん配属されました。

ところが私は情報システム部門に配属されたのです。当時は「情報システム部」と言っていましたが、そこに新卒で入ったのが、庶務担当の女性1名を含めて5名でした。配属先が発表されたとき、なぜ情報システム部なのか自分でもわからず、とても意外でした。それが入社直後の強烈な印象として残っています。私は特に大学の時に情報システム工学などの分野が専門だったというわけではなかったですから。

でも、研究の道具として、磁界とか電界のシミュレーションでコンピュータを使うことはありましたし、確かに入社の時の履歴書等にそういう情報は書いてあったんですね。あとから考えれば、そのへんに着目されたのかもしれないとは思うのですが。

能登原
大学でのご専攻は物理ですか?

島本
いえ、電気工学です。ただ、理系出身ということで私自身は通信技術の部署に配属されるものと勝手に決めていたわけです(笑)。情報システム部門に配属されるとは全然想像してなかったわけですから、当然、企業の情報システムというものがどういうものなのかもわからなければ、情報システム部門の仕事がどういうものなのか見当もつきません。そういうわけで「何で情報システム部?」と思ったのがすごく印象に残っています。
しかし、配属されてしまえばやることはたくさんあったので、それこそよくわからないままだけれども一生懸命にやっていたという感じでした。

能登原
その情報システム部で、島本さんはどういった仕事から始められたんですか?

島本
情報システム部で最初に担当したのは運用管理です。夜間のバッチ処理で全部のスケジュールを組んで、次の日の朝までにオンラインがスタートできるようにコントロールすることとか、テーブルをセットしておくとか、そういう仕事がメインでした。

でも、なにしろ開業してすぐで社員も少なかったし、一方ではやらなければいけないことがたくさんあって結構いろいろなことをやりました。例えば、大型プリンタの紙の交換もしましたし、そこからプリントアウトして出てくる請求書を封筒に入れてお客様に送るオペレーションも同じ建物の中でやっていましたので、そのサポートとかですね。

休日当番の元旦にトラブル発生!

島本
その頃の仕事で一番印象に残っているのは、夜間対応をするポジションにいて、何らかの障害、トラブルが発生したときのことです。自分では解決方法がわからないですし、特にソフトウェアの障害やバグがあった場合には自分で直接修正もできない状態があったので、真夜中でも関係する人に連絡を取りまくりながら対応しました。

お正月でも当然何かしらの処理が動いているわけですから、休日でも誰かが当番に出なきゃいけない。そういうときには若者が先に当番に充てられるわけですが、ちょうど私が元旦の当番だったときに、1989年から1990年に変わるタイミングで、10の桁が変わることによって誤動作する潜在バグを抱えていたソフトウェアがあったんですよ。

能登原
2000年問題じゃなくて、1990年問題ですね(笑)。

島本
ええ。まあ、ある意味で2000年問題みたいなものですね。今振り返ってみると、おそらく非常に質の悪いプログラムだったのだと思うんです。問題なのは、それが上手く動かないと、その後の仕事が全部止まってしまうような処理だったことです。当然月末に締めて12月の請求書をお客様に出していくというのが仕事の流れですから、ここで止まってしまうと請求処理も全部遅れてしまうので、元旦から走り回って対応しました。トラブル対応は時間との戦いですが、このときは特にそうでした。

能登原
1990年のお正月というと、島本さんは入社2年にちょっと足りないくらいですか。それはちょっと忘れられない経験でしょうね。走り回った甲斐があって、なんとか解決できたのですね。

島本
ええ。結構厳しい対応でしたけど、逆にそういった厳しいトラブル対応を経験したことで、何となくいろいろなことがわかるようになってきたんじゃないかと思いました。

能登原
どのようなことがわかるようになりましたか? それによって仕事の全体像が把握できたとか。

島本
少なくとも通信事業のお客様との対応の流れの中においては、業務そのものの全体像が見えてきたのではないかと思います。申込書をいただいて請求書を出してお金をいただくという一連の流れは、かなり速い段階で見えてきました。今から思うに、そういうものを見ることができる場にいたということですね。

能登原
なるほど。その次はどのようなお仕事に配属されたのですか?

島本
1990年問題のあとも、しばらくはそのまま運用管理上のコントロールのようなことをやっていました。次に、運用の中でも実際のジョブコントロールではなくて、利用部門との窓口、システムワーク、ヘルプデスクをきちんと整理しようということになり、その整理や立ち上げ、ルール作りなどをやりました。当時、システム障害やトラブルによってオンラインが止まったとか、誤請求を出してしまったとかということもたまにあったんです。結局謝りに行くケースが多かったんですけれども、そういう窓口の仕事を少しやりました。

その間、自らプログラムを組んだりシステムを設計したりということは全くやっておりません。入社して5年くらいはそんな感じでした。

能登原
1990年くらいというと、コンピュータの世界では、汎用機からダウンサイジングへの流れが出てきたころですね。

島本
そうですね。ただ我々の仕事に関しては、その影響はあまりなかったんですよ。基本的にメインフレームでないと動かせないトランザクション量だったので、そういう意味ではダウンサイジングとかそういったところはほとんど関係がなかったのです。

いろいろな雑誌の記事を読んで「時代はダウンサイジングへ向かっている」ということは知ってはいましたが、現実にはちょっと遠い世界の話でした。ただ利用者側の端末が、昔はダム端末とかだったのが徐々にパソコンに切り替わっていって、そうこうしているうちに社内全体をオンラインネットワーク基盤、OAネットワークの基盤を作ってそこに基幹のアプリケーションを据えていこうという話に徐々に移っていきましたから、そこが一番大きな変化ではないかと思います。

能登原
メインフレームのバッチ処理で請求書を出さないといけないという基本的な仕組みは変わらなかったということですか。

島本
そうですね。それは実は今も変わっていません(笑)。

能登原
当たり前と言えば当たり前かもしれませんね。

島本
そもそもメインフレームとはそういう用途のものなんでしょうね。ですからメインフレームはいまだに必要だと思いますよ。ただインターフェイスがずいぶん変わってきているということだと思います。

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