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2005年4月28日

島本 栄光さん(2)
KDDI株式会社 情報システム本部 システム企画部
管理グループ 課長

島本 栄光さん島本 栄光さん
KDDI株式会社 情報システム本部 システム企画部
管理グループ 課長
1988年DDI(現KDDI)に入社。一貫して情報システムに携わる。2001年10月のKDDI社合併においては、システム統合に関する事務局として各種調整にあたった。現在は情報システム本部の人材育成・教育研修を担当。
著書に「情報処理教科書 システムアナリスト」(翔泳社)、「上級シスアド合格への道」(編著:同友社)、「風雲!シスアドの現場」(編著:秀和システム)がある。
上級システムアドミニストレータ連絡会 副会長

無我夢中で仕事をこなす日々を経て困難なプロジェクトの担当に

島本栄光さん

能登原
御社のように急成長されている企業の情報システム部というのは、また普通の会社とかなり違うんでしょうね?

島本
今はそうでもないと思いますが、やはりその当時、私が入社してからの何年間は、会社がググッと伸びている状況で、お客様の数がどんどん増えていく時期だったんですね。毎年のようにメインフレームにリプレースをかけていたという状況でしたので、息をつく間もありません。システム開発の案件もどんどん挙がってきますし、自分が何の担当かとか、自分の役割はこうだとか決めていては動けなかったと思います。何でもやらなきゃいけないという状況ですから、たぶんクォリティは低かったと思いますよ。きちんと勉強してやったわけではないですし、専門的に突き詰めたわけでもないですから、今から思えば結果的にはどれも中途半端だったと思うんです。ただ、そんなことは言っていられなかったというのがありますね。

能登原
システム部門の人を採用し割り当てるペース以上に、どんどん規模と仕事が増えるという状況ですね。

島本
はい。現場の人たちからはすごくシビアな要求の声が上がってきますから「これは僕の仕事ではないです」とか言っていたら仕事にならなかったんです。「もういいよ、お前は」と見捨てられてしまう、そういう世界です。

入社した時、情報システム部門の人間は全部合わせて19人だったのが、少しずつ増えていって、95年くらいには、40〜50人くらいになっていました。新卒でも割とたくさん割り当ててもらっていたようですし、情報システム部門に限らずですが、積極的に中途採用を採っていましたので、情報システム専門でスペシャリストとして来る人も何人かいました。でもやっぱりそんなに極端には人員を増やせないですよね。

能登原
プロフィールを拝見しますと、95年頃に携帯電話の課金システム構築を手がけられたのですね。

島本
そうです。その頃になると開発管理するメンバーが数多く必要になってきていたので、私の仕事も運用管理からシステム開発にシフトしました。要はユーザー企業におけるシステム開発の仕事ですね。
ただこの時は、かなり難儀をしました。大変なプロジェクトだったんです。

能登原
それについて詳しくお聞かせいただけますか?

島本
まず、どういうプロジェクトだったのかということをご説明しましょう。当時のDDIにおいては今のauの前身である「セルラー」という会社が日本各地にありました。東京近郊および関東と東海以外に、DDIとは別会社でセルラーという会社が合計8つ存在していたんです。

当時、セルラー各社はそれなりの情報システムをそれぞれ持っており、それぞれのセルラー会社から見ればうまく機能していたと思います。しかし、DDI側からトータルの観点で見るといろいろと無駄が多くあるように見え、常に懸念事項として挙げられていました。そこで、DDIで一元的に集約して課金システムを構築し、運用したらどうかということになったんです。まあ、DDIから見れば、自然な意見だったと思うんですけど。

能登原
そうですね。業務効率の考えとしては自然ですね。

島本
ところが、こちらで自然だと考えられていた意見が、実際にはあまり自然じゃなかったんですね(苦笑)。最初から一元的に運用すればよいと普通は考えますが、そうなっていなかった背景には、実はいろいろ理由がありました。各地のセルラー会社にそれぞれ独自のサービスがあるとか、営業と近いところで小回りの効くシステムにしたいとか、そういう希望があった。あるいはDDIと各地の電力会社と協働して立ち上げたというかたちでセルラー会社が成り立っていたという経緯があり、簡単にひとつにできなかったという事情もあったわけです。

能登原
そうだったんですか。それはちょっと複雑ですね。今でも電力会社と協働なのですか。

島本
今はもう違いますが、その当時はそうだったんです。各地方の電力会社は、システム部門はもちろんコンピュータセンターも立派なものをお持ちです。その中で、システム構築されていて、しかも安く運営できるという状況だったものですから「べつに一元化しなくてもいいじゃないか」というのがセルラー各社の現場の気持ちとしてありました。ですから各現場の意見集約に一番苦労しました。最終的には、何て言うんでしょう、皆が納得できるようなすっきりしたかたちにできなかったんですね。

何と言っても、それまで中途半端に「ここまでは中央でやって、ここは地方で」という形で各セルラー会社の情報システムができていたいきさつがあったので、この時のプロジェクトでも調整が難航しました。

入社10年足らずの「若造」が苦しいプロジェクトから学んだこと

能登原
島本さんがそのセルラー会社の現場に行かれて、いろいろと意見調整をしたのですね。

島本
はい、もう沖縄以外はすべて行きました(笑)。それも1回ではなくて何回も行って修正とか調整とかやりました。そうやって、少しずつ時間をかけて、「システムを一元化すればこれだけのメリットがある」、「こうすることで懸念事項が消える」ということを整理しながら浸透させて、「何とかこれくらいだったらできそうだ」というかたちまでは整理をしていったのです。

ところが、なんとかそこまで持っていったのに、今度はこちら側といいますか、センター側のアプリケーション開発が予定通り進まなかったために、プロジェクトが大変なことになりました。要は最初にお願いした協力会社がシステムを作りきることができなかったんです。また、私たちの方にも、仕様の取りまとめ方や開発環境の整備などが十分にできなかったという点もありました。ただ、結果としてどんどんスケジュールが遅れていく。そうすると当然各地からも「どうなっているんだ」と苦情が来る、開発コストも膨らんでいく、という悪循環の状態になってしまったのです。

能登原
社内だけでなくて、社外も巻き込んだ調整は非常に難しいですね。

島本
そうですね。当時は私もまだ若僧でしたから、今考えてみれば、経験の浅い社員が行ってどうこうできる話ではなかった部分もあると思うんですよ。本当はもっと上の立場から大掴みにまとめてもらってトップダウンで行く必要もあったかもしれないと思います。そういうのを上手く利用して回していくことができればもっとやりようもあったのかもしれないですけど、当時はなかなかできなかった。結果として非常に苦労したということでしょうね。

能登原
このプロジェクトは、おひとりで担当されていたんですか。

島本
6〜7人のチームで動いていました。それ以外に、さっきお話した協力会社の上流工程の担当者の方に支援していただきながら調整をしていました。

能登原
それでも大変ですよ。このプロジェクトにはどのくらいの期間かかりました?

島本
結果的には2年半くらいです。そのうち後半の1年半は、最初の協力会社とは別のところにお願いして、はじめからやり直したりしていますので、余計に時間がかかっています。

能登原
このプロジェクトは島本さんご自身にとって、かなり大きな経験だったのでしょうね。

島本
苦労はしましたが、勉強にはなったと思いますよ。多くの人と知り合うことができましたし。また、それまであまり出張に行く機会がなかったので、セルラー各社に行くのは最初は楽しかったです(笑)。そのうちに楽しいどころではなくなりましたが。

各地に行って説明をして回るとか、調整して回るということが多かったので、例えば朝、仙台に行ってその日の打ち合わせが終わったあとで仙台空港から千歳に飛ぶとか、金沢に行ってそこで打ち合わせをして翌朝小松から30人乗りくらいの飛行機で広島に飛ぶとかいうのもありました。

能登原
このプロジェクトのために各地の意見を集約するまで、特に各地方のセルラー会社の個別事情とかは把握されていなかったのですか。

島本
少なくとも私はなかったですね。私たち情報システム部門とは別にそういう業務調整をする部門があったもので。システム以外のお金がもろもろかかりますから、それを各セルラーに配布したり、各セルラーに情報展開すべき場合にはその部署を拠点に展開するとか、そういう窓口の部署があったんですが、そこでも、何となくいろいろな問題があるようだということしかわかっていなかったです。

能登原
それでいざ蓋を開けてみたら、調整が難航したわけですね。

島本
そうですね。ただ、システム一元化のプロジェクトを立ち上げたゆえに、それを機に今までの不満とかいろいろな問題がわっと出てきたということはあったかもしれないです。

能登原
たいへんなご苦労だったとは思いますが、結果的にはそういうマイナス部分もきちんと表に出せて解決できてよかったのかもしれません。

島本
そういうところはあったと思いますよ。これは非常に勝手で楽天的な考えですが、今から考えると、そういう経緯があるので、KDDIに合併した後でシステム統合という話になった時も、このときの失敗を糧にして、どう対応したらいいか、あるいはどういうところに気をつけなければいけないのか、経験的にわかっている人がシステム部門に多かったと言えるかもしれないです。

能登原
経験がちゃんと蓄積されていたのですね。

島本
カッコよく言えば、ですけども(笑)。

能登原
一応DDI内のシステム開発とはいえ、利害関係が異なる複数の会社の調整を図りながらシステムを構築することは、かなり難易度が高いです。

島本
そうですね。後から考えると、とても大それたことをやろうとしていたという思いもします。というのは、セルラー各社に行くとそこの社長さんが打ち合わせに出ていらっしゃるんです。当時はあまり気にならなかったんですが、いま考えるとちょっと怖いですね。

能登原
ちなみに島本さんがお幾つくらいの時ですか。

島本
年齢的には29か30くらいですね。

やはり入社して10年足らずで、しかもずっと情報システム部門で運用や開発をやっていると、システムをいかに上手く作ろうかとか上手に運営しようとかということはいろいろ考えるんですが、このシステムが経営にどれだけ貢献できるのか、これだけ投資して、その投資に見合った効果が出るのかということにはなかなか頭が回りませんでした。しかし、意見調整にうかがった先で社長さん、あるいは担当役員や常務さんが出ていらっしゃると、当然システムをそういう視点で見られるわけです。自分にはそういう視点が圧倒的に欠けていたなと思い知らされました。それがこのプロジェクトから学んだ一番大きなことだったかもしれません。

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