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2005年9月22日

平鍋 健児さん(1)
永和システムマネジメント 取締役

平鍋 健児さん平鍋 健児さん
永和システムマネジメント 取締役
1989年東京大学工学部卒業後、3次元CAD、リアルタイムシステム、UMLエディタJUDEなどの開発を経て、現在、株式会社永和システムマネジメントでコンサルタントとしてオブジェクト指向、アジャイル開発を研究・実践。マインドマップとUMLの融合エディタ、JUDE(ジュード)を開発。オブジェクト倶楽部を主宰。
XPに関するメーリングリストXP-jpを運営。酒と映画と福井を愛する。
翻訳書に「アジャイル プロジェクトマネジメント」(日経BP社)「リーンソフトウエア開発」(日経BP社)「XPエクスストリーム・プログラミング 導入編」(ピアソン・エデュケーション)、「マルチパラダイムデザイン」(ピアソン・エデュケーション)などがある。
参考URL: オブジェクト倶楽部  JUDE

世界を震撼させるソフトウェアをつくりたい

平鍋健児さん

能登原
この対談の趣旨は、読者、特に若い方にゲストを通してリアルな目標を持っていただくことなんです。現在、IT業界で活躍されているPMやエンジニアの方が、どういう経緯でこの業界に入られたか?悩んだり失敗したりしながら、どのようにして現在のキャリアを築いてきたのか、結果だけではなくその過程を話していただくと、目標というか、励みになるのではないでしょうか。

最初は平鍋さんがどういうかたちでITに携わったのかということからお聞きします。たぶん大学くらいからずっとやられていたのではないかと思いますが。

平鍋
僕の場合、大学での話はあまりないんですけど、卒業して入った会社は大手鉄鋼メーカーです。僕が入社した頃は、いわゆるバブル絶頂期でした。

能登原
それは何年くらいのことですか。

平鍋
89年です。7年くらいその職場にいました。その時は、ほとんど3次元 CADシステムの開発者として仕事をしていました。

能登原
そもそも平鍋さんがソフトウェアにご関心をお持ちになったのはどういったことがきっかけだったんですか。

平鍋
何でもできそうだった(笑)。

能登原
何でもできそうだった? どこでもドアみたいにですか。

平鍋
そうですね。他のものは実現するのに結構お金がかかったりするじゃないですか。例えば、建築家になりたいと言っても、自分で家を建てられるわけじゃなくて、どこからか資材を買って来ないといけないし。でもソフトウェアって、ほとんどパソコン1個あれば作れますよね。

能登原
ええ、作れますね。

平鍋
それで、なにか世界を震撼させるソフトを作りたいとずっと思っていたんです。

能登原
世界を震撼させる…それはすごい。

平鍋
当時はリナックスのようなものをイメージしたんです。僕の力量ではそう簡単に世界を震撼させるものはできないというのが後でわかったんですが(笑)、まあ、「なんだこれは!」というインパクトを与えるようなものを作りたかった。「人にインパクトを与えたい」っていうのは、けっこうモチベーションになる。「えーっ?」と思わせるとか。僕は、たぶん感動が人間のモチベーションの源泉になると思っているので。

話を元に戻しますと、まあ、ソフトウェアって何でもできるんだというのがひとつの大きな理由ですね。

能登原
それは大学に入られる前から考えていたんですか。

平鍋
いや、僕はソフトウェアを始めたのは遅くて。中学校の時に一応はBASICをさわったことがありますけれど、その時にピンときていたわけじゃないんですよ。

大学でもソフトウェアをやって、面白いなと思ったけど、そこでもそんなにピンと来なかった。ですから会社に入ってCADの開発をやって問題に直面した時に、初めてソフトウェアを意識したんです。

問題というのは、大きなソフトウェアが、何でこんなに変更しづらいのかということです。ここをいじるとそっちが動かなくなる、というのがよくありますよね。建築物なら、ここがこう組んである、と見えているからいいんだけど、ソフトウェアは見えないので非常に属人性が強い。ここはどうなっているの? と、いちいち開発した人に聞かないといけないわけです。何でこう変更しづらいものだろうという、問題意識が芽生えたのが最初の開発の時です。

能登原
なるほどね。それはよくわかります。

平鍋
波及分析というか、ここを変えるとこちらに波及するというのが見えないですよね。

能登原
それは永遠の課題ですよね。

平鍋
そのうちに、92年くらいにオブジェクト指向という考え方に出会って、その時にはもう、「ああこれだ」と思いましたね。「ああこれが、波及を食い止めるひとつの技術なのだろう」と感じたんです。これが僕が求めていたものだと。

能登原
ああいうCADとか制御系の仕組みというのは、オブジェクト指向の設計に向いていますよね。モジュール化しやすいから。

平鍋
ええ。その会社では95年くらいまでずっと開発をやっていたんですけども、オブジェクト指向を小さく自分のできる範囲でやっていて、モジュール指向はある程度はできるかなという希望はあるんだけど、やっぱりそれだけではまずいかなと。当然、そのテクノロジーだけではだめだろうと。

その次に、駅の案内放送をやりました。それも並行処理とオブジェクト指向と割とマッチしていて、非常に面白いと思ったんです。

能登原
会社の中で部署を変わられたんですか。

平鍋
いえ、それは最初の会社を退職してからですね。今の永和システムマネジメントに来て最初にやった仕事が駅の案内放送でした。それはリアルタイムで電車の運行状態を、見ながら案内を出すというものです。

ソフトウェアの仕事ならどこでもできる、と帰郷

平鍋健児さん

能登原
ちなみに永和システムマネジメントは福井の会社で、平鍋さんは転職して福井に引っ越されたわけですが、もともと福井のご出身だったんですね。

平鍋
ええ、出身地です。

能登原
それを決断なさった理由を聞いてもよろしいですか。

平鍋
僕ね、映画とか演劇やジャズライブがすごく好きなんです。だからそれが毎日のように上映、上演される東京って、今も大好きな街です。

でも福井に帰ろうと思ったのは、まず子供ができたことですね。それから満員電車に乗っていて、「これ疲れるな」と思い始めて。ちょうど東京にいることのメリットと田舎のメリットと、損益分岐点みたいな交差点があって、ちょうど30歳で福井が勝ったということなんだと思います。

子供ができたというのは大きいですね。やっぱり夏休みに子供と一緒にカブトムシを捕りたいじゃないですか。それから子供の頃、僕は川によく泳ぎに行ったんですね。そういう時間と環境を子供と一緒に味わいたい。その欲望の方が、大好きな映画を見たいことよりも勝ってきたんですね。

能登原
平鍋さんとしては、家族が一番大事で、優先順位が高いんですね。

平鍋
それは、自分の中の優先順位としてあるんだと思います。
でも僕は仕事もすごく好きですよ。でも福井に帰っても仕事はできる。ソフトウェア業界の仕事は場所を問わずどこでもできますから。今は昔よりもっと、できる環境が整っています。僕は再就職を決める2年前くらいから福井で就職活動をしていました。

能登原
それはすごい。用意周到ですね

平鍋
福井に帰るたびに、福井にはどういう仕事があるだろうとずっと探っていましたから。だからすごく計画的でした。

能登原
永和システムマネジメントさんに決めた理由というのは。

平鍋
うーん、なんでしょうね。僕の直感なんですけどね。紹介してもらったとき、今の社長とすごく気が合ったというか、魅力を感じました。

能登原
福井に帰ったらこういう仕事をやろうとか、そのときにはすでにイメージされていたんですか。

平鍋
まあとりあえず、その会社の仕事をしようと思っていたんですけど、僕も、せっかく東京にいたんだから、お客さんを連れて帰ってこようと。で、チームも作り、ちょっと大きくしていったというわけです。

水面下でこっそり始めたJUDE開発

能登原
実は私は、JUDEそのものは知っていたんですが、それを平鍋さんが作ったということは知らなかったんです。で、たまたま弊社の林の講演関連でホームページを見たら、平鍋さんの記事が出ていて、トヨタ生産システムの思想をシステム開発に生かそうとしていらっしゃることに非常に興味を持ったので、今回の対談を企画したというわけです。
永和さんに入って最初にやられたのは、JUDEとか、ああいうところからですか。

平鍋
いえ、最初はCADの仕事で、その次がリアルタイム制御の駅の案内システムです。で、その頃から僕は、受託開発だけではつまらないと思い始めたんです。なので、こっそり、こそこそとアンダー・ザ・テーブルで始めたんです。

能登原
そうだったんですか。

平鍋
JUDEの最初のころは、毎日1〜2時間ずつ僕が書いていましたし。こっそり会社の何人かに「やらない?」と誘いをかけました。田舎に戻ったんですけれど、ふつふつと、やっぱりすごいソフトウェアを作ってみたいという気持ちが湧き上がってくる。そういうところから始まったんです。だからコスト上は会社の経営者にも見えないよう水面下で開発をしていました。

能登原
こういうソフト開発の場合、最初は、まあ、そういうところはありますよね。

平鍋
そうなんです。自分がやりたいから、「やらしてくれよ」という感じでやっていたわけです。

能登原
で、現在の形になるまでどのくらいかかったんですか?

平鍋
作り始めたのは96年か97年なんですよ。JUDEの最初の名前はJOMTです。97〜99年はまったく水面下でやって、99年にフリーでダウンロードさせることを始めました。そこまで会社の経費はまったく使っていないというか、帳簿上では全然出てこないんです。僕のなかまの趣味でやったみたいな感じで。

ただね、99年の時点では、やっぱりフリーソフトなので、そんなに品質がよくないんですよ。最初は本当に「まあ動くけど、どうかね?」みたいな感じで。発売が2004年の11月なんですが、その前の1年間くらい、2003年くらいからはちゃんとプロジェクトとして、中国のメンバーとやっていました。

能登原
じゃ、2003年からはビジネスですね。

平鍋
ええ、そこからはビジネスとしてやっていました。

能登原
5年くらいずっとフリーソフトとして、いろいろな人から評価を受けてきたわけですよね。レビューが長かったので、根強いファン層がいてくれる。それはすごく強いですよ。

ソフトウェアの開発も、それこそ音楽じゃないけど、いきなりメジャーデビューするのもありですが、だいたい最初は、それこそインディーズみたいなかたちで出てきて、コミュニティの中で作っていくという発想もありですよね。そういうインディーズ的な世界が、ある意味、ソフトウェア開発の層を厚くしていく。

平鍋
ああ、なるほど。確かにそうですね。やっぱりモデリングのソフトとか、高くてすぐに使えないんですよね。もっと簡単に使いたいというのが潜在的にありますよね。

能登原
たぶん今、モデリングしたいという人口の、実は6割か7割は高機能はいらないんですよ。これだけでいいんだけど、これ50万もするの? という世界ですね。

平鍋
JUDEは、今年間20万くらいのダウンロードがありますし、それから日本のメールアドレスが特定できるユーザーが、まあフリー版単位ですけど、3万人くらいいる。なので、一応それを市場としてマーケティングができて、ようやくビジネスとして成り立ちそうかな。ビジネスにするぞ!という感じです。

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