プロジェクトマネジメント、プロジェクト管理におけるポータルサイト

HOME > プロマネへの道 > 木村 勝さん(1) 住友化学システムサービス株式会社

2007年4月27日

木村 勝さん(1)
住友化学システムサービス株式会社 技術部 部長

木村 勝さん木村 勝(きむら まさる)さん
住友化学システムサービス株式会社
技術部 部長
1985年、法政大学電気工学科卒。同年4月 沖電気工業(株)に入社。
都銀/地銀の営業店システムの開発に従事。
1991年住化インフォテック(現 住友化学システムサービス(株))に入社。
工場システムの開発/運用に従事。
1996年より住友化学様R/3導入に従事(サプライチェーンを担当)
2001年よりR/3インフラ構築に従事。
2004年より技術部にて、ネットワーク再構築、セキュリティ基準/IT標準の策定などを担当。

「ハードには不向き」と言われ、ソフトウエア畑に

木村勝さん

能登原
今回の対談は、木村さんご自身の歴史を振り返ることで、読者の方に「プロマネになるまでの経験」を感じていただこうという趣旨ですので、よろしくお願いいたします。
(※ 現在は、技術部長)
そもそも木村さんは、最初からコンピュータに興味がおありで、システムエンジニアになろうと思われていたのですか。

木村
最初に進路を意識したのは1980年頃ですね。そのころ、やっとコンピュータというものが一般に認知されてきました。当時の僕は、コンピュータにハードとソフトがあることもまだ知らなかったのですが、今後伸びていきそうなコンピュータに興味を持ちました。それで大学受験のときに、その方面の学科を受けて入りました。

能登原
どういう学科に入られたのでしょう。

木村
工学部の電気工学科です。コンピュータにハードとソフトがあることも分からない状態でしたが、入学してからはハードの設計をやりました。製図を書いて教授に意見をいただくのですが、そのときに「君はハードに向いていない」とはっきり言われてしまって(笑)。

能登原
ちなみに、その先生は、木村さんのどういうところがハードに向いていないとおっしゃったのですか。

木村
図面を描くときは、三角図法で描くというセオリーがあるのですよ。
なにしろ僕はそんなことは知らないですから、勝手に自己流で描いたのです。教授が「意見の欲しい人は図面を持って私のところへ来なさい」というので、持って行ったところ、さんざんに怒られたのです。「君、これは駄目だ」と言われました。そして「今は、ソフトというものもあるらしいよ」と言われて、そちらの方面も意識するようになりました。

能登原
木村さんがいらしたのは、計測制御工学のようなところですか。

木村
そうです。僕は法政大学の工学部で計測制御工学を専攻しました。ここでの計測制御の分野には大きく分けて、「計測」と「制御」と「数理系」の3つがありました。

能登原
その計測制御というご専攻も、最初からご自分でお決めになったのですか。

木村
そうです。

能登原
せっかく、ピンポイントで狙って入られたのに、教授には「君はハードに向いていない」と言われてしまったわけですね。でも計測制御のイメージは、ハードよりもソフト寄りかなという気もします。

木村
確かに、そういう気はしますね。

能登原
今、計測制御系ソフトは、けっこう組み込み系としてありますよね。

木村
ええ。学科としてとしては、大学にいた当時も時代に先行したことをやっていたと思いますが、その中で確かに僕にはハードは向いてなかったです。

能登原
今、木村さんがおっしゃっているハードというのは、電気回路や電子回路のことですか。

木村
そうです。大学の実習や実験で僕が作った回路は動かなかったですね(笑)。

能登原
私は大学で情報工学を専攻していましたが、実験というと、パースモーターで、プリンタを動かすソフトをアセンブラで書いて制御するものでした。木村さんの実験は、ソフトを書くのではなく回路基盤を作るようなことをやられていたのでしょうか。

木村
主には回路基盤でしたね。なかにはアセンブラで書いたソフトをそれに組み合わせてやっている研究室もありましたが、扱っているのは主にハードでした。とはいっても、僕のようにハードに向いていない人とか数学を専攻したい人たちは数理関係に行きました。僕も数理関係に進んで、汎用機を使ってCAIのような教育用のシステムを作ることを卒業研究のテーマにしました。

能登原
なるほど、そういうことですか。そこが今の木村さんの原点ですね。

就職後、最初のシステム構築はアセンブラから

能登原

能登原
就職をされる時もいろいろ考えられたと思うのですけど、メーカーにお入りになったのですね。

木村
そうです。「ハードは向いていないのだからソフトだ」という気持ちがありましたのでメーカーでソフトウェアの開発もやっていた沖電気に入りました。

能登原
その当時は、まだNECや沖電気は電電公社系というか、通信系の会社という感じに傍からは見られていましたが、実際に入社なさってみていかがでしたか?

木村
電電ファミリーとして世の中では見られてました。でも、一方では金融の営業店システム(ATM等)にも強かったですね。

能登原
木村さんは入社後、ハードではなくソフトの担当部署に入られたのですね(笑)。

木村
そうです(笑)。

能登原
具体的には、どういう方面に配属されたのですか。

木村
銀行の営業店システムの開発です。 銀行の営業店の中で使うサーバーがあり、、そのサーバーを使って、業務処理、ホスト障害時のバックアップの処理等を開発するシステムを担当しました。

能登原
そうすると、いきなり金融関係の仕組みから入られたということですね。

木村
そうですね。その部署に入って、機械はIBM製でしたから、IBMの人たちと一緒に仕事をしました。

能登原
マシンはIBMだったのですか? 沖電気さんのマシンではなくて。

木村
ええ、そうです。そのとき使ったIBMのマシンは、金融専用のサーバーでしたから、言語も金融専用の言語でした。

能登原
言語まで金融専門ですか。

木村
どちらかというと、その言語はアセンブラに近いもので、メモリ番地に、レジスターとか、そういう世界でしたね。

能登原
例えば、IBMさんの金融専用マシンであれば、OSも異なるのですよね。データベースにしても、確か名前はIMSだったかな。それを金融機関用にカスタマイズしたもので、すごく高速に処理できるとか、そういうかたちになっていたと思います。

木村
おそらくそうだと思いますね。そういうものだから非常にマイナーで、OSの名前も当時の僕が聞いたこともないものだったと記憶しています。

能登原
でも、そういうことだと、ほとんどアセンブラからやったようなものですね。

木村
そうですね。

能登原
大学の時にもうアセンブラを勉強されていたのですか。

木村
いえ、入社してからです。

能登原
それでいきなりアセンブラからやるのは、けっこう大変だったのではないですか。

木村
確かに作るのは大変ですけど、考えるのはそんなに難しくなかったです。よく分からなかったのは、配属されて最初の三ヶ月くらいですかね。それ以降はできるようになりました。

能登原
まあ、アセンブラは、言うなればアキュムレーターとインプット、アウトプット、補助記憶装置の間をやり取りしているだけですから。あとは何もないですものね。

木村
ええ、シンプルですね。

能登原
じゃあ、そこから始められて、その後は? それをずっと何年間もやられたのですか。

木村
その金融機関ではちょうど「第三次オンラインシステム」の構築時期でしたから、実際に作るのに1年かかり、それからテストに2年かけて、というスケジュールで3年間担当しました。

地銀システムの中核部分をC言語で

木村勝さん

木村
そのあと、地銀のシステム開発を担当しました。自社のサーバーで動かすシステムで、C言語で開発しました。

能登原
ああ、Cでやられたのですか。Cで事務処理系を構築するのは、けっこうたいへんでしょう。

木村
そうですね。僕がCで開発したのは、システムの中でも共通的なところです。ファイルをコントロールするとか、そういうところをCで構築して、アプリケーションはCOBOLでやっていました。

能登原
アセンブラをやったり、Cでやるということは、そのころの木村さんのポジションは技術チームというか、プロジェクトのチームの中でも技術的にコアなところを担当していたということですね。

木村
そうです。その地銀のシステムでは、アプリケーションの量が多い部分はいろいろな関係会社の人たちが担当していて、僕たちはシステムの中心のところだけを担当していました。

能登原
やはり、まずは自社で一番コアなところをやって、サブルーチン化とか共通化しておいてから、アプリケーションの部分は協力会社の人とかに振り分けたのでしょう。一番難しいところ、つまり「そこは自社でやらないといけないだろう」という部分は押さえておいたということですね。

木村
そんな感じです。

能登原
その時には、プロジェクトチームはどのくらいの規模で、その中で木村さんの役割は、どういうものだったのですか。

木村
木村:システムの中心的な部分だけで言うと、チームは10名から20名だったと思いますね。アプリケーションの担当者まで全部入れると、50人以上いたと思いますから、どこまでをプロジェクトチームの範疇にするかにもよりますけれど、ざっとそれくらいの規模です。
地銀の時は、僕はその中心のところのサブリーダーという感じでやっていましたね。

能登原
その時木村さんは、入社して3、4年目ですけれど、そろそろ中堅じゃないですか。後輩が入ってきたりして、リーダーシップを発揮するような感じだったのでしょうね。それに、コアになっているチームはそのくらいの規模でも、周辺にはベンダーの人もたくさんいるでしょうし、協力会社の人たちもいるでしょう? だんだん責任を持たされるような感じになるのですか。そのあたりはどういうふうになっていくのか、私はメーカーにいたことがないので、ちょっとお聞きしたいのですが。

木村
そのプロジェクトのときは、外部の方とのやり取りはあまりなかったです。でも、下から新しく入ってくる人がいるので、その教育係みたいなことをやっていましたね。

能登原
時期的に言うと、木村さんが大学を出られたのが…

木村
85年です。

能登原
そこから3年たっているということですから、木村さんがCでシステム開発をやられていたころというと89年とかその辺りですよね。

木村
そうですね。Cでやったのは、88年から91年くらいまでです。

能登原
ああ、なるほど。ちょうどバブルの頃ですね。

木村
ええ、そうなんですよ。

能登原
木村さんがCでやられていた頃がバブル真っ最中で、90年91年くらいにはバブルがはじけましたね。ということは、ちょうどダウンサイジングの動きが起こり始めるころじゃないですか? 私の記憶では確かそのころ、85年くらいからC言語がはやり始めて、「そろそろCだ」という雰囲気でした。カーニハン博士とリッチー博士の「プログラミング言語C」を読みながらみたいな時代ですよね。

木村
そうです。でも、金融システム開発は閉じた世界になっていましたから、あまり世の中のシステムとは、少し異なった世界でしたね。ハードも一般的なパソコンのようなものではなくて、銀行の営業店で使う専用ハードでしたし、そこからソフトを作り上げるわけです。そのころの世の中一般がどうなっていたのかというのは、あとから振り返って「ああ、周囲はそうだったんだね」(笑)という感じです。

能登原
そういう環境でやっていると、一般的なトレンドは分からないかもしれません。やはり目の前のプロジェクトに集中していますものね。

木村
でも、金融システムの世界は進んでいると思いますね。当時の金融のホストやシステム全体の構成や信頼性について、そのころの僕は「こういうのは世の中では普通なのだろう」と思っていたのです。ところがいったん外に出てみると、「あ…けっこう、すごかったのね」と(笑)。

能登原
もう、全然違いますよ。われわれはかなりひどい状況でやっていましたね。まだそういう時代でした。

木村
僕たちは1年で作って2年間テストと、3年くらいが一つの区切りというプロジェクトなので、比較的楽にスケジュールが組めました。今みたいに頻繁に納期が訪れるというような状態ではないので。

能登原
頻繁に納期が…(笑)。そうしますと、わりとゆったりとした期間もあるし、お金も取れて、きちんきちんとプロジェクトが進む。金融システムのプロジェクトはそういった面があるのですね。

木村
その当時の印象ですが、やはり、お金はしっかりかけますからね。でも品質についてはかなり厳しいです。それなりに覚悟してやっているということです。

能登原
品質第一でやっている。

木村
ええ。だから、テストについても、自分で作ったものは、たとえ1行でも必ずテストするのです。
さっき言いましたように、アセンブラに近いものなので、「ここのデータを、ここのメモリのここの番地に移した」と書くと、その番地を見て、そこにちゃんとデータが入っているかというのを、一個一個全部自分の目で確認していきました。ですから、そのころのソースはまだ覚えています。頭の中にこびりついてしまうのですよ。それくらいやって、「ちゃんと動くね」ということ確認していきます。
ところがCで書くと、どこに何のデータを置いたか分からないので、最初は不安で仕方がなかったですね。不安でしたが、どうやら別に心配しなくてもいいらしいというのが分かってきて、そのうちに気にしなくなりましたけれど。

能登原
実は私、最初の時に使ったCで、とんでもない経験をしました。Cにすごいバグがありまして、今木村さんが言われたように、ここに置いたはずのデータが置かれていなかったのですね。Cは一度、中間でアセンブラに落とすじゃないですか。それから機械語なのですけど、中間に落としたアセンブラを見ると間違っている(笑)。コンパイルが間違っていたのです。

木村
それは大変ですね(笑)。

能登原
思い返せば、そういうこともありました。今はそんなことはないですけどね。最初の出始めのころのCには、ひどいCがありましたよ。

木村
コンパイルの話をすると、沖電気はメーカーだったので、ハードも自前、OSも自前、全部自前で、そういったバグがあっても対応はしやすかったです。

能登原
確かに、それは対応しやすいですよね。

木村
誰かが「バグがあるよ」と言うと、すぐに直すのですよ。

能登原
ええ、あの頃はそういう感じでしたよね。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

↑ このページの先頭へ