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2007年5月11日

木村 勝さん(2)
住友化学システムサービス株式会社 技術部 部長

木村 勝さん木村 勝(きむら まさる)さん
住友化学システムサービス株式会社
技術部 部長
1985年、法政大学電気工学科卒。同年4月 沖電気工業(株)に入社。
都銀/地銀の営業店システムの開発に従事。
1991年住化インフォテック(現 住友化学システムサービス(株))に入社。
工場システムの開発/運用に従事。
1996年より住友化学様R/3導入に従事(サプライチェーンを担当)
2001年よりR/3インフラ構築に従事。
2004年より技術部にて、ネットワーク再構築、セキュリティ基準/IT標準の策定などを担当。

出身地の新居浜市にUターン転職

木村勝さん

能登原
地銀のシステムも問題なく完成されたと思いますが、その後はどうされたのですか。そろそろ90年代に入りますよね。

木村
91年に僕はUターンすることにし、故郷の愛媛県に会社を探しました。僕は新居浜市の出身なのですけど、新居浜市には住友系の企業が多く、そこでシステムの開発/運用をしていたのが今の会社の前身です。「そこなら転勤もないからいいだろう」ということで、転職しました。

能登原
それは、「東京でのソフト開発って大変だな」とか、そういうお気持ちがあったのですか。

木村
いえ、特には。

能登原
仕事自身に不満があったわけではなくて?

木村
なかったですね。長男ですので、故郷に両親もいるからUターンしようと考えました。

能登原
就職して何年かして、仕事も分かったし、もうこれでやっていけそうだという感じだったのでしょうか。私は最初に入社したのがユーザー企業で、情報システム部だったのですけど、入社5年目くらいはけっこう不安だったのですよ。木村さんは「この仕事をずっとやっていけるのかな」という不安はなかったですか? 例えば、先ほど「ハードは向かなかった」というお話がありましたけど。逆にソフトは「自分に合っているな」と感じていたのでしょうか。

木村
まあ、「ソフトは合っていないことはないな」とは思っていましたね。少なくとも嫌いではなかったです。金融は大変ではありましたが、やりがいもあったし、嫌いではなかったですよ。どちらかと言うと、続けたいという気持ちは強かったです。 そういう話を親にして、最終的には、田舎で行くところがなければ、また東京でやろうという気持ちはあったのですが、たまたまシステム系の会社を紹介されて、面接にいったら「来て下さい」という話だったので、「行きましょう」ということになったのですけれど。

能登原
それでは、木村さんは愛媛での採用だったのですね。

木村
そうです。

能登原
御社の皆さんにお話をお聞きすると、いろいろな土地の工場を経験されておられる方が多いです。今、住友化学では新居浜工場が一番大きいのですか?

木村
工場が5つあるのですけど、大きいのは愛媛と千葉です。愛媛は基礎化学、千葉は石油化学で、その二つが大きいですね。住友の歴史からいうと、愛媛工場は昔、別子銅山の関係もあり住友化学の発祥となる古い歴史がある工場です。

能登原
仕事としては、情報システム部門のようなものですか。

木村
そうです。その愛媛工場の情報システムを開発、運用していました。

能登原
住友化学の中の情報システム部ではなくて、「住友化学システムサービス」という会社がもうあったのですか。

木村
僕が入社した時は「住化インフォテック」という会社で、住友化学愛媛工場のシステム関係の子会社でした。一方、住友化学システムサービスという今の会社は大阪にあって、本社のメインフレーム系、経理系のシステム開発/運用の子会社でした。それが93年に合併しました。合併した時点では、住友化学本体には情報システム室という情報部門があったのですけれど、97年にはそのシステム部門も全部統合して、最終的には情報システムの仕事を外に持ち出した形になりました。だから、僕が入社してから、会社がどんどんでかくなっちゃって(笑)、転勤なんかないと思っていたのに…

能登原
そうですよね。現に今は、木村さんは東京にいらっしゃる。東京が本社ですものね。

木村
そうです。

能登原
それ以前は、大阪が本社だったのですね。

木村
はい。今は、東阪両方に本社を持っています。大阪にもけっこうな人数がいますから。

小規模だが広範囲な知識が要求される工場のシステム

木村勝さん

能登原
それまでメーカーのお立場だったのが、御社の前身に入られて、今度は工場のシステムを作るという、ちょっと違う立場になられましたよね。そのへんで何か、違和感というか、慣れるまで「何か違う」という感覚はありましたか。仕事のやり方ですとか。

木村
ありましたね。ちょうど僕はC言語をやっていたということで、これからオープン系のシステムを展開するのに必要な人材として採用になったのですが、そのころC言語を使うシステムといえば、工場で、原料/製品の投入/出来高の管理、分析データを吸い上げて、データを加工/レポートするようなシステムでした。僕が入った時はちょうどダウンサイジングが始まったころで、C言語の経験者がいなくて、ほとんど新入社員ばかりだったのですが、まずその人たちを教えるという立場とその工場のシステムを開発する立場となりました。 金融を担当していた頃は、作るシステム自体が大きいので、中心のところだけでもそれなりに仕事があったわけですが、工場に行くと小ぢんまりしたシステムで、自分たちでハードの調達からなにから一から全部やらないといけませんでした。最初、経験もなくてどうやっていいのか分からなくて、大変でした。周りにそれについて聞ける人があまりいなくて。

能登原
ちなみに愛媛工場の製品は何ですか。銅の精錬をやられていたのでしたか?

木村
銅の精錬自体は住友金属鉱山というところがやっています。住友化学は、昔銅の精錬をする時に出る有害な亜硫酸ガスから肥料を製造する事業を始めたのが発祥です。だからもともとは肥料を作っていました。今はかなり製品の範囲が広がっています。例えば、アクリル板という、例えば水族館の水槽の分厚い透明な板を作るとか、機能性フィルムという液晶に貼るフィルム、それからアルミとか、何となく化学のイメージから遠いものもありますね。

能登原
そうすると、工場では多品種を少量生産すると考えればよいですか。

木村
そうですね。愛媛ではそのような製品が多いように思います。

能登原
製品に合わせたさまざまな工程や製造のやり方があって、それを現場でデータを収集、計測したりとか、ちょっとした制御をしたりとか、いろいろなパターンがありますよね。

木村
製品に応じた在庫管理とか生産管理とか、それを基に生産指示を出すとか、いろいろあります。

能登原
それを一つ一つ請け負って、設計して作っていくということを、やらないといけない。

木村
そうですね。まあ、僕が全部は見られないので、一部でしたけれど。 そのときに、一番思ったのは、金融との違いです。金融の人たちにとっては、システムを使うのが当たり前で、使わないで仕事をすること自体があり得ない。仕事の一部です。ところが、そのころの製造業は、やっとパソコンが入った段階なので、システムをいかに使ってもらうかが課題になるわけです。それこそ「マウスの操作はこういうふうにしましょう」(笑)というところからやっていました。ものすごくギャップがありました。 だから、ものを作るのはそんなに難しいとは思わなかったのですけど、それを展開するのは、かなり大変だなあ、と。

能登原
マシンは何でした? パソコンですか? もっと大きいミニコンとか専用コンピュータですか。

木村
いろいろあります。ミニコンのVAX(バックス)もありましたし、ちょうどそのころはUNIXのワークステーションを使ったりしましたし、いろいろありましたね。

能登原
実は私も前はユーザー企業にいて工場を担当していたのですよ。その時には、一番の末端はパソコンで、そこにインターフェースのボードを付けて、それと設備の計器をつないで、そこからデータを収集して、いったんパソコンで処理してからミニコンなどに上げていきました。そんな感じですよね。それで全部の仕組みをこう…

木村
ええ、取りまとめるみたいな。ちょうど、製造の制御機械に横河電機製のプロコンというのがあって、そこからのデータをパソコンに集めて、それを一括してワークステーションのほうへ送って、そこにRDBがあって、データを解析する人はその専用の端末から見るといったシステムでしたね。

能登原
そうすると、システムを作るためには、何でもかんでも知らないといけなくなるじゃないですか。

木村
そうなんです。

能登原
パソコンのことは知らないといけないし、通信のことも知らないといけない。システム全体を一人で見ると、知るべき範囲がすごく広がりますよね。それをトータルで設計しないといけないので、私はすごく勉強になりました。今でもあれをやっておいてよかったと思います。

木村
その思いは僕もありますよ。とにかく、発注するためにはどんな構成にするか決めないといけないので、最初から最後まで調べてやる。入れた後のユーザ教育もやりますし、システムの運用もやりました。一通りやれたのはよかったと思いますね。

仕事の中で自ら腕を磨く姿勢を大切に

木村勝さん

能登原
その中で、ご苦労されたというか、大変だったことはなかったですか。「なかなかうまくいかなくて」とか。私は、もういくらでもありましたが(笑)。

木村
苦労したシステムはあまりなかったです。ただ、いろいろ打ち合わせをするのですけど、なかなかユーザさんの要件が決まらなくて、大変だったことはありました。システム自体はそんなに複雑ではなかったと思います。

能登原
優秀だったのですね。

木村
やる範囲が広いですから、もちろん大変なところはあります。でも僕はそのころ30を過ぎて管理する立場で、実際に手を下してやるというのは、あまりなかったですから、プログラムミングでの苦労は若い人たちにあったと思います。

能登原
実際には若い人たちがやりますからね。

木村
中には納期に間に合わなくて、僕も手伝って徹夜でやったのはありましたけどね(笑)。

能登原
若い方の育成については、何か工夫されたのですか。

木村
工夫というほどのものはないです。僕のやり方は以前から、とにかく仕事を与えてやらせる、考えさせるというのでしょうか。「僕は管理者です。あなたたちは作る人たちですから、見積もって下さい」と。

能登原
自分たちで見積もって下さいと。

木村
それで、その見積もり通りやらせていく。たとえば部下が自分の見積もりが甘くて、納期が迫ってきた。そうしたら、「どうしますか」と問いかけるわけです。「あなたはこう見積もりましたけども、こんな状況になりました。どうしますか」と。そういうふうに考えさせる。そうすると「自分が言ったから、やらないといけない」とか、「分からないことは自分で調べよう」「助けてもらおう」とか、こちらが指示しなくても何か考えて動きます。だから一方的に教えないというか、あまり過保護にしないようなやり方をするようにはしました。

能登原
じつは私、昔は過保護にしすぎてよく失敗しました。白板で「さあ、やるぞ」と、「君はこうやって」とスケジュールを全部つくって、全部指示してやらせていたことがあります。でもやはり、人が作ったスケジュールではやる気にならないだろうと思うようになりました。自分でコミットしたやり方やスケジュールでないと、人は動かないですよね。

木村
そうですね。上司に使われているというのはなくて、「あなたはプロです」と言って、「プロだったら分からないところは自分で投資して勉強しないと駄目」というふうにし向けるわけです。

能登原
木村さんの、そういうお考えというか姿勢というのはどこから来ているのでしょう。

木村
自分がそういうふうに育ってきたからだと思います。うちの親が職人なので、その影響もあったのかもしれません。

能登原
親御さんは何をされているのですか。

木村
建築板金です。屋根を作ったりする、あれです。一人でやるタイプで、全部自分で考えて工夫していくわけです。で、僕も子どものころから手伝わされたりしていました。そういうのは、影響しているのかもしれないですね。職人は「腕が命」というところがありますから、自分で腕を磨かないと駄目だという感じは受けていたと思います。

能登原
そうですね。自分からやらないと。ちょうどそのころ、私はアセンブラをやっていたのです。モトローラー6800です。まだ家に帰ると取ってあると思いますけど、その説明書にアセンブラの定義が書いてある。あれが一番のバイブルで、読み込んでいたのを今でも覚えています。パソコン通信の時代ですから、パソコンハンドシェイクの通信のやりとりを書いた本とか、バイブル的な本も持っていました。

木村
東京に出張に行った時には、お茶の水の三省堂へ行って関係する本をごっそり買って持って帰っていたりしましたね。とにかく集めたという思いはあります。大変でしたけどね。

能登原
昔はパソコンというとPC9800シリーズしかなくて、それのFC用のFC9800があったのですよ。今はパソコンを買ってもマニュアルなんてほとんどないですけど、昔のPC9800シリーズはマニュアルが充実していて、こんな分厚いのが付いていました。そこを丹念に読むと、けっこう手作りでプログラミングができる。夢中で読みましたね。

木村
僕はそんなに細かい部分まではやってなかったですね。ちょうどそのころ、ウインドウシステムが出始めたころなので、ウインドウの設計というのはどうするのだろうか?と、そういう本はよく読んでいたと思います。

能登原
もしかしたら、私のほうが2、3年前の話をしているのでしょうか。私が就職したのは83年なのですよ。木村さんは?

木村
85年です。

能登原
やっぱり2年くらい早いですね。

木村
新しいものが出始めのころなので、本もいろいろありましたよ。それに雑誌にちょっとだけ載っている記事を集めて参考にしていました。

能登原
あのころはコンピュータ関連雑誌がたくさんありましたね。最近はあまりないですけど。よく読んでいました。

木村
ちょっとした記事にも何かヒントがありましたから。

能登原
ありましたね。Windows3.1からWindows95が出るくらいですものね。95になって大きく変わりました。

木村
あのころは、いろいろありましたね。

能登原
懐かしいですね。みんな雑誌を買っていましたよ。僕は、ずっと『Interface』という雑誌を買っていました。

木村
じゃあもう、細かい(笑)。

能登原
細かいのが好きだったのですよ。自分でやるわけではなくて誰かに作らせるのですけれど、自分も一応知っておかないと気が済まないタイプだったかもしれません。今は全然ですけれど(笑)。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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