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2007年8月31日

宮本 文宏さん(1)
日本ユニシス株式会社 人材育成部 HR変革コンピテンスセンター チーフ・スペシャリスト

宮本 文宏さん宮本 文宏(みやもと ふみひろ)さん
日本ユニシス株式会社
人材育成部 HR変革コンピテンスセンター チーフ・スペシャリスト
1989年3月 岡山大学文学部哲学科卒業 同年4月 日本ユニシス株式会社入社。UNIXによる開発を多数手がける。
2000年からP2/M等、上流工程からのITコンサルティングに従事。
2002年からソリューション開発領域システム構築PMとしてプロジェクトを担当。
2006年から人材育成部に。

文学部哲学科から日本ユニシスに

宮本
事前に対談の準備をする時間がなくて、申し訳ありません。

能登原
いえ、もう雑談のつもりで、ざっくばらんにお話いただければと思います。
まず恒例の質問ですが、宮本さんはそもそも最初からコンピュータ関係の仕事を志向されていたのでしょうか。例えば学生のころから、IT業界に入ってスペシャリストになることを目指されていたとか。

宮本
いえ、コンピュータをやろうと思って大学に入ったわけではありませんでした。実は、岡山大学の文学部だったんです。

能登原
岡山ですか。私は出身が岡山の倉敷です。

宮本
それではご存知かもしれませんが、私は岡山大学の、あの広い校舎にいました。

能登原
文学部と言ってもいろいろですが、ご専攻は?

宮本
哲学科です。哲学自体はコンピュータに直接関係ありませんが、哲学科には心理学があり、その中の行動科学や行動心理学という分野で、コンピュータを使って統計処理をしていました。そのときにコンピュータを自分で使ってみて、けっこう面白いなと思ったのが、一つの動機になっています。

能登原
それは面白い流れですね。

宮本
それに、私は趣味で絵を書くことや、ものをつくることが好きだったので、何かものをつくる職業に就きたいと思っていたのです。大学でコンピュータを実際に使ってみて、コンピュータでいろいろなことができそうだとわかったことが、動機としては大きいですね。
ユニシスに就職したのは、「技術職が強い」、「ものをつくることを大切にしている会社」というイメージが強かったことが理由です。

能登原
なるほど。最初はコンピュータのユーザーからのスタートだったのですね。当時からある程度コンピュータの勉強はされていたのですか。

宮本
いえ、実際にプログラムをつくるようなヘビーユーザーではなかったですね。ただコンピュータには可能性を感じました。当時はバブルになりつつあったので、就職先としては証券系の会社の人気が高かったです。私の同期もそちらに進んだ人が多かったのですが、私はただ物を売るだけではなくて、何かを作っていく会社に惹かれたというのがありますね。

能登原
なるほどね。岡山大学では哲学科に心理学も含まれているのですか。

宮本
ええ、哲学の中に心理学と美学と倫理学があります。

能登原
その中で、宮本さんは行動心理学系のことをやられていたのですね。

宮本
そうですね。そのころちょっと流行っていたんですよ(笑)。

能登原
でも哲学科ですから、当然哲学も学ばれるのでしょう?

宮本
ええ。主には哲学ですから。

能登原
私は情報工学専攻でしたから、コンピュータ系の学科を卒業して、そのままコンピュータの仕事をしています。若いころはもっと技術志向だったのですが、40歳過ぎて人間についていろいろ考えるようになると、哲学や心理学に興味が出て、そういった分野の本をいくつも読んだりしています。宮本さんは早くから、その分野に興味をお持ちだったのですか。

宮本
そうですね。高校のときから哲学の本を読んだりしていました。普段人が見ているものと違った見方でものを見たときに、違った様相でものが見えてくるというのが、哲学のアプローチの仕方としてあって、非常に面白いと思っていたのです。それで、せっかく大学で勉強するのであれば、そういったことをやってみるのもいいかなと思って。

能登原
ロジカルというところでは哲学もコンピュータも共通しているわけですね。
確かに、哲学的なことを知っていると、全く違った発想が出てきますね。

宮本
ええ、今の仕事でも、見方をどう変えるかとかいうところでは、哲学的なアプローチや考え方がけっこう使えたりします。

能登原
それはありますね。コンピュータの技術的な部分の構築というよりも、人とどう接するかとか、人をどう動かすとか、人とどううまくやるかという部分に使えるかもしれません。プロジェクトをやる上でも役に立ちますね。

宮本
そうですね。広い意味ではコミュニケーションのやり方のひとつですから。

入社時からUNIXを担当する部門へ

能登原
大学を卒業されたのは何年ぐらいですか。

宮本
ちょうど平成元年度、1989年です。金融が上り調子のころで、バブルちょっと手前ですね。コンピュータもどんどん広がっていく時期で、大量採用の時代でしたから、同期もたくさんいました。

能登原
宮本さんが入社されたころは、まだユニシスさんも汎用機が全盛ですよね。

宮本
はい。研修時は汎用機でしたね。ただ、私が最初に配属されたのが、UNIXの部門だったんですよ。ちょうどUNIXが出始めて、アメリカからUNIXを搭載したハードウェアを持ち帰って、パッケージをポーテーションしたり、何か新たな付加価値を付けて日本で売っていこうとか、日本へのUNIX受け入れと商品への落とし込みをやっている部門があって、ちょうどそこにはまったわけです。

能登原
そのころからUNIXをやられていたのですか。私も90年ぐらいからUNIXが入ってきてダウンサイジングになって、非常にたいへんでした。

宮本
そうそう(笑)。

能登原
汎用機から、今度はUNIXだ、といってみんな勉強し始め、言語もC言語になりました。みんなが一斉にカーニハン&リッチーの「C言語」を読むような時代でしたね。ネットワークもそれからでした。

宮本
そうですね。まだそんなにネットワーク化されていなくて、汎用機の文化が非常に強いころですね。能登原さんもその前は汎用機をやってらっしゃったのですか。

能登原
私は最初、日本鉱業という会社に入りました。今は新日鉱ホールディングと言うホールディング会社のもと、ジャパンエナジー、日鉱金属という事業会社に分かれています。そこの情報システム部門だったので、汎用機は日立系でした。それをダウンサイジングしていったわけです。
でも私は、業務アプリケーションよりも工場の制御用コンピュータを主にやっていました。

宮本
制御ですか。生産管理ではなくて?

能登原
制御です。工場ではパソコンで簡単な計測機器を制御するなど、いろいろなことをやっていました。ですから、汎用機は実際にはあまり使っていないのです。そのあともうUNIXの世界になったので、私もそこからいきなりUNIXの世界に(笑)。

宮本
そうなんですよね。ちょうどバブルのあのころからUNIXが入って来て、パソコンでは、マイクロソフトも出始めの、かたちがまだ出来上がってないぐらいでしたよね。Macユーザーにけっこうヘビーユーザーが多くて、という時代でしたね。

能登原
そのあとはOS/2とWindowsの戦いがあって。

宮本
ええ。懐かしいですね。

能登原
当然クライアントは、そのどちらにするかというのを考えられた時期ですよね。

宮本
そうです。サーバーOSをUNIXにしたときに、クライアントOSをどっちにするのかという…

能登原
それともMacにするかという時代でした。

宮本
エミュレーターというかたちで載っけて。今あるコンピュータからは想像つきにくいですが。

能登原
そうですね。そうすると、宮本さんは、90年の始めはずっとUNIXを使って、今まで汎用機で作ったものをダウンサイジングして納めるシステムの請負の仕事をずっとやられたのですか。

宮本
はい。

能登原
その辺で何かご苦労した点はありましたか?

宮本
われわれがやったときには、わりと小規模なお客さんが多かったのですよ。もともと汎用機で持っていたパッケージをポーテンションしてUNIXに載せて販売していました。主に経理や販売管理、人事給与のパッケージを、経理部や人事部のお客様に対して提供していました。
そういった意味では、システム的にはクリティカル度が非常に少なかったというのが幸いしました。ダウンサイジングのように、止まったら業務に全面的に影響があるというよりは、人事のパッケージや会計系のパッケージなので、総務部であったり人事部であったりという狭い範囲でだけしか影響がなかった。ですから、わりと小規模・少人数でプロジェクトを回していけました。協力会社の方と私でペアを組みながら、実際に全国のいくつかのお客さんにパッケージを入れていって、今から思うとそこが勉強になったのかなと思います。

能登原
そうですね。逆に、汎用機の大きいプロジェクトの一部をやるというよりも、小さいけど全部任されてやるほうが勉強になるかもしれません。最初はお客さんへの提案からやられるのですか。

宮本
いえ。もともと汎用機の入っているお客さんなので、「だいたいこういうのをやろう」ということで、営業と話は決まっているのです。要件の聞き取りから始まって、今で言う要件定義、外部設計、内部設計、導入といったところを一通りやりました。見積もりも、実際にはお客さんの要件を聞いて、「これぐらいのコストね」と調整したりするので、開発全体のプロセスをやっているというかたちになりますね。

能登原
プロジェクトマネジメント的に言うと、どういう立場で入られたのですか。プロジェクトマネジャですか。

宮本
あのころはプロジェクトマネジャという言葉はなかったですけど、実際にはプロジェクトマネジャをやっていたようなものだと思います。規模も小さかったので、私と協力会社1、2名で、上司はいるのですけど、上司にはほとんど報告だけでした。最終的には「お金はこれぐらいの見積もりで」と出したら、「じゃあ、それで」という話だったので、早いうちにプロジェクトを任されたことになるのかもしれません。あのころはプロジェクトとは言わなかったですけれど。

能登原
あまり言っていなかったですね。

宮本
「開発をやっている」という言い方をしていました。プロマネという言葉自体がまだ定着していなかった。日本の中でプロジェクトマネジャという言葉が浸透し始めたのは、ここ数年ですよね。

能登原
うまくいかないような事例が徐々に起きてきて、2000年過ぎてからでしょうか。PMBOKが少し一般的になってからです。

宮本
エンジニアリング業界や建築業界では、PMBOKの流れからPMという言葉もわりと一般的になっていたと思うのです。IBMさんはもともとPMBOKを入れていたかもしれませんけれど、IT業界の中ではそんなにPMという言い方をしませんでした。

能登原
そのころはプロジェクトマネジメントのところだけ切り出されてはいなかったのですけど、開発の方法論のようなものはありましたよね。御社の中でも、もうそのころから、何か手順のようなものがあったのですか?

宮本
手順とまで言えるかどうかは分かりませんが、いま整理されている手順とはまた違った伝承的なかたちで、「こうやって、こうやって、こうやる」というものが、組織の文化と言うか、会社の文化としてありましたね。並行して全社的に、統一した開発手法を、アメリカユニシスから取り入れて確立し、普及を開始し始めた時期でもありますね。

能登原
95年ごろですか。ちょうどWindows95が出て、Windows勢が優勢になったころですよね。

宮本
それぐらいですね。

能登原
だいたいクライアントはWindowsでやって、というのが定着したころです。まだクライアントサーバでしたね。

宮本
ええ。私が最初にやっていたころは、手順といっても明確なプロセスが文書化されてやっていると言うよりは、「パッケージの導入はこういう手順でやっていくんだよね」という世界でやっていました。先ほどのご質問の、PM的にはどの部分をやっていたのかと言うと、構築以降の構築PMとしての仕事がメインで、あとは一部サポートサービス的なPMもやりつつ、そのパッケージを何カ所か導入するというのを、ちょうど1年か1年ちょっとやっていました。

「火消し」をしながら、徐々に規模の大きなプロジェクトに

宮本
そのあとさっきおっしゃった、ダウンサイジングに近い流れのところで、非常にいろいろなプロジェクトが火を吹き始めて来るのです。UNIXにしていくと、どんどん(笑)。最初はみんなダウンサイジングでコストが安くなるというので、夢のような話にのっかってくるのですが、蓋を開けるとコストがものすごく掛かってしまったりして、全然性能が出ない。性能が全然出ないというのは、そのころのメモリーやCPUの性能による部分が大きかったと思います。今のパソコンのCPUをでかいサーバーに載せてやっているようなものですからね。

能登原
コンピュータ内部のコンポーネントを繋ぐシステムバスなんかもそうですし、ネックになる部分がいっぱいありましたね。

宮本
それで、火を吹き始めたのを、「ちょっとサポートしてくれ」という話が来るのです。そのころUNIXの知識を持っている人がそんなにいなかったので、「OSやデータベースについてある程度の知識を持っている人がほしい」ということで、いろいろサポートに入りました。だんだん規模の大きなプロジェクトに入って行ったのが、2年目、3年目くらいです。

能登原
宮本さんはそのとき業務アプリケーションを全体に見られていたけれど、OS周りとか、もうちょっとアーキテクチャのベーシックと言うかプリミティブと言うか…そういったところも得意で、入られていたのですか。

宮本
そうです。OS絡みが多かったですね。やはりそこが、なかなか汎用機から来た方には、イメージが?みにくいみたいなのです。「こんなOSです」って、シェルとか言っても分からないという世界でした。そのあたりが最初の入り口でしたね。

能登原
あのころは、マニュアルやノウハウ集もなくて、一生懸命いろいろなところを調べて、みんなでマニュアルを作りながらやっていた時代ですものね。

宮本
そうです。おっしゃる通りで、お互いに経験しながら「ああ、こんなこともできるんだ…」と一つ一つ分かっていく。

能登原
そういう時代でしたからね。技術者としてはベテランと言うよりもまだ若手で、その分野に強いからというので、いろいろなプロジェクトをやられていたのですね。

宮本
そうです。そうやってサポートとしてやっていくうちに、プロジェクトの立ち上げから入っていくことが、だんだん増えていきました。

能登原
一度そういう分野に強いという評判が立ってしまうと、ずっとそれをやられたりしませんか。

宮本
そう、何かあれば呼ばれます(笑)。

能登原
そうそう。宮本さんが強いというのが分かったら、絶対みんなが離しませんよ。引く手あまたになりますよね(笑)。

宮本
部分的なサポートだけでなく、プロジェクトを見て全体感を掴みたいという意識が強かったと思います。ゼロから始めるプロジェクトに入るチャンスがたまたま何回かあって、そこでプロジェクトを最初から一緒にやって全体を見ていく機会に恵まれました。そのときはサブリーダーぐらいですかね。

能登原
計画段階から入られて、ということですね。

宮本
そうですね。今まではメインの仕事が非常に小さい、20名ぐらいのメンバーをまわしながらのプロジェクトにはサポートで入っていたのですが、今度はそちらがメインになってきました。

能登原
もうそのときには、それまで完全に汎用機でやっていた、ある程度基幹的なところを、UNIXに置き換えるようなプロジェクトですか。

宮本
そこはまだ、汎用機の置き換えというほどクリティカルではなかったですね。文書検索や、もうちょっと違ったかたちで、グラフィックなデータを使って全体の文書を管理しながら中身が見えるようにしましょうとか、そういった切り出したシステムでした。いわゆる基幹系の非常に厳しいところまでは、まだいっていなかったです。

能登原
確かに、徐々にそういうかたちでUNIXが使われていきました。リスクはありますからね。今考えてみるとわれわれも、あまりメインのところはやっていないです。
そのときはクライアントサーバ型でしたか?

宮本
そうです。だから、アーキテクチャも今とはかなり違っていますね。クライアントサーバ型で、非常に単純な構造ですし。いろいろな技術があるとは言え、ある程度限定された中でアーキテクチャを組まざるを得ないと言ったほうがいいのでしょうか。そのころは、今のように非常にたくさんの選択肢の中からどうやって作っていくのかという目線よりも、制約のある中でどう作っていくのかというほうが強かった気がしますね。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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