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2007年11月22日

川島 信幸さん(1)
株式会社豊通シスコム GIT事業本部 企画総括室

川島 信幸さん川島 信幸(かわしま のぶゆき)さん
株式会社豊通シスコム
GIT事業本部 企画総括室
ソフトハウス、NEC販売特約店でアセンブラやOSのEDITION、ボードの開発を経験後
1997年 豊通テレコム(現豊通シスコム)入社、福利厚生サービス開発後
2002年に現在の部署(GIT事業本部)へ異動、PM品質向上活動に従事
2007年10月より企画総括室のメンバーとして、人材育成、品質向上活動等を担当

早熟コンピュータ少年の実践キャリアはアセンブラから

川島信幸さん

川島
僕の経歴はちょっと特殊なので、あまり参考にならないのではないかと思うのですが……

能登原
いや、ぜひお聞きしたいです。川島さんとコンピュータとの出会いは、いつ頃でしたか。

川島
高校のときTK-80をいじったり、コンピュータ雑誌にマシン語が5枚ぐらいバーッと並んでいるのを見ながらPCに打って、「何か動いた!」みたいなことをやっていました。

能登原
TK-80ですか。懐かしいですね。

川島
あとは情報処理科が使うPC-8001やPC-6001が学校にあって、僕は電気科だったのですが、自由に使えたんです。BASICでヘリコプターの絵をつくって、飛ばして遊んだりしていました。そういったことがきっかけで、この業界に入ろうと思ったんです。高校を卒業して大学に進学したのですが、同時に東京のソフト会社にも就職しました。30人ぐらいの会社です。

能登原
確かに、特殊というより早熟ですね。もう大学で勉強しながら稼いでいたわけですから。

川島
ですから、大学での勉強はあまり仕事には役に立たなかったですね。
そのときのソフトハウスで、いきなり仕事でやったのがアセンブラです。PL/40という、東芝さんのレジスタベースの簡易言語でした。新人が同期で何人かいたのですが、そういった人間が、いきなりアセンブラをやらされるという環境でした。

能登原
なるほど。それは組み込み系の装置か何かですか。

川島
東芝の工場でファックスを製造していまして、僕たちがやっていたのはファックスの汎用蓄積といって、2000枚分のデータを溜め込めて、複数の宛先にいっぺんに送られる同報ファックスができるような装置なのです。今は普通の小さいファックスでも同報機能や蓄積機能が標準装備されていますが、20年以上前なので、ファックスにそんな機能は付いていなかったわけです。

能登原
なるほど、20年前と言えばそうでしょうね。

川島
物流の会社などでは、ファックスを使って大量に処理をするので、そのための汎用蓄積装置を販売していたのです。その汎用蓄積のマン・マシン・インターフェースをアセンブラで作成していました。新入社員は内部処理の難しいタスクはあまりやらせてもらえずに、そういうマン・マシン・インターフェースだけやりました。1年ぐらい経って、マン・マシン・インターフェースにも飽きてきたので、「何か他のことをやらせてくれ」と。

能登原
画面ばかりだと飽きますよね。実は私も最初に勤めた会社の1年目には、検査装置か何かの画面をアセンブラで作っていました。私がやっていたのはモトローラの68000でしたけど。

川島
東芝のミニコンはTOSBACというOSをよく使っていましたが、たまたまそれはMYCOS-Ⅱという、ちょっと主流と外れたOSを積んでいたのです。

能登原
一応OSはあったんですか。

川島
ええ。東芝の工場でちゃんとつくられたOSでした。

能登原
なるほど。私が1年目にやったのは、OSなしで生の68000でした。

川島
生ですか(笑)。アセンブラで強烈だったのは、入出力タスクは大きくなりすぎ、リストを出すと、ストックフォームが1箱出てしまう状態だったんです。だから1本が10万ステップぐらいあったと思うのですけれど。

能登原
タスクに分かれてなかったのですか。

川島
アセンブラでOCRにも対応しているしOMRにも対応しているとか、いろいろなオプションに対応していたので、入力タスクだけで1本10万ステップだったんです。
私が担当した一番大きなタスクは1万5千ステップぐらいだったと思います。

能登原
でも、それがアセンブラということですから、全てのメモリの領域とか全部頭に入ってないと組めないですね。

川島
メモリが1メガバイトしかないんですよ。だからタスクが走行する1メガバイトのうち、このタスクはここと決まっています。

能登原
一応OSでその割り付けが決まっているんですね。それを経験していれば、他のプログラミングは簡単ですね。

川島
そうですね。アセンブラをやれば怖いものはないです。大抵のプログラミングは大丈夫ですね。
それにデバックも、机上バックが主体で、マシーンを使う時は、ブレークポイントを設けて、レジスタの中身を見て合っているかどうかという確認をずっとやっていました。

能登原
そういう非常にプリミティブなデバッカーの装置を使いながらやったんですね。

川島
そうですね。かなり原始的でしたね。
プログラムソースを直して、オブジェクトを手に入れるまで時間が掛かる(数時間)ので、プログラムにパッチを当てながらデバックしました。パッチエリアが一杯になるとソース修正をしに行きます。

能登原
当然、ラインエディタですよね。

川島
はい。ラインエディタで1万ステップとか10万ステップのタスクを直すのは、すごく辛いですよ。リストを見るだけでも辛いですから。

能登原
少なくともリストを見て打ち込まないで、直すところだけラインエディタで直さないと、とてもじゃないけど無理ですよ。リストされたものがないとできないですね。

パソコン時代の到来を予測し転職

川島信幸さん

能登原
新人のころから数年はそれ中心にやられていたのですか。

川島
そうですね。4年、5年ぐらいずっとやりました。最初に入ったソフトハウスでは最終的にはOSのエディションを自分でやるところまでやっていたのですけど、もうその仕事に飽きてきて、「OSまで自分で作れたらもういいだろう」と思ったのです。ちょうどそのころパソコンが出てきたのですよ。今から20年前くらいかな。

能登原
1985年ぐらいですか。

川島
東芝のJ3100ってそのころでしたか。

能登原
そうかもしれません。まだダイナブックの前ですか。

川島
はい。オレンジ色のプラズマ・ディスプレイの。

能登原
ええ、覚えていますよ。

能登原
川島さんはちょうどそのころ飽きてきて、この辺でなんか別のことをやりたいなと思い始めたのですね。

川島
はい。それで転職しました。次はもうパソコンだなと思って。

能登原
次にパソコンの世界が来ると。

川島
はい。言語もアセンブラをやっていれば何でもできるかなというのもありましたし、C言語も流行だったので、パソコンとCを覚えようかなと思って、またそういう小さな会社に移りました。

能登原
あの頃はマイクロソフトC(MS-C)でしたか。

川島
そのころ使っていたのは、なぜかMS-CではなくてTurbo-Cだったのです。Turbo-CはPC9801のハードウェアの関数が充実していて簡単に扱えたので。MS-Cの場合は、バイオスコールしないと使えないのですけど、それをやらずに関数だけでやれたのです。
僕はアセンブラができるので直接でもいいのですけど、Turbo-Cが多かったですね。その会社は制御系のソフトハウスだったのですけど、組み込みソフトもあって、ゼッパチもやりました。

能登原
Z80ですね。

川島
CPUのZ80はそのころ流行ったのですよ。最近全然見ないですが。

能登原
ザイロク社はインテルに吸収されたのでしょうか。このあとはインテルとモトローラの世界になったでしょう?

川島
このザイログ社も日本人が絡んでいるのですよね。このあいだホームページで見たのですけど。インテルに電卓を作っている会社の日本人プログラマが、最初に話を持ち込んで…

能登原
そうそう、それでマイコンができたのです。

川島
はい。それを作られた人が、もとの会社を辞めるときに、ザイログ社に引っ張られたというお話が載っていました。

能登原
そういう歴史のあるものなのですね。

川島
ゼッパチでは、船に組み込む通信パネルの装置などを作りました。

能登原
パソコンをやろうと思って入られた会社でも、PC98の仕組み以外に制御系もやられていたのですか。

川島
そこは制御系を得意とする会社で、PC上の開発も行いますし、昔NECのPC98の後ろに挿すCバスというボードがあったのですが、ボード上のFW(ファームウェア)の開発も行いました。これも80系のCPUをボードに持っていて、Cバスで通信してという形で、パソコン側のデバイスドライバも作ったのです。かなり特殊な開発ですね。

能登原
私はこのころ、前の会社で制御系の担当で、アプリケーションを作っていたのですけど、やはりPC98を使っていたのです。それでボードメーカーを探していたのですよ。PC98専門ボードメーカーが何社かありましたよね。

川島
たくさんありました。僕はこの会社のあとにボードを開発する会社に入って、ボード開発にも参加しました。

能登原
ボードの設計もやられていたんですか。

川島
ボード上のFW(ファームウェア)とPC側のデバイスドライバの開発を担当しました。そのときの会社は、TK-80を製造していた会社です。

能登原
私もTK-80には思い出があります。大学のときに電子工学の実験で使ったのがTK-80です。プリンタを動かすパルスモータの台形制御とかをTK-80を使ってアセンブラで組むのが演習でした。それができると1単位もらえるのです

能登原
楽しかったですよね、あのころは。

川島
そうですね。もう机上デバッグあまりやらなくなりましたね。パソコンで全部解決していましたから。机上で追いかけるのは、難しいロジックのときだけになりました。

能登原
エディタも、フルスクリーン時代になって感動しましたよね。エディタもこのころたくさん出てきて。

川島
僕はあまり使ってなかったですけど、VZエディタとかありましたよね。僕がよく使っていたのはマイフェス(MIFES)です。

能登原
MIFESは、私も使っていました。

川島
PCの全盛だったのでしょうね。

能登原
そうそう、PCのハードウェアの近いところを触る楽しさが、この時代にはまだありましたね。

川島
昔の言語って統合環境がなかったですから。今のVisual BASICとかVisual Cってエディタとコンパイラと全部一緒になっているじゃないですか。このころはそういう統合環境がなくて、コンパイラはコンパイルするだけ、エディタもエディットするだけで、必ず必要だったのです。PC上にはそれ専用のアプリケーションが必ず載っていて、みんな好みによってMIFESを使ったりVZエディタを使ったりしていました。

能登原
それが楽しかったですね。

川島
自分なりのカスタマイズをしていましたよね。このキーをタッチしたら、マクロを組んでいて、パッと何か自分なりの動きをするようにとか。

能登原
今の人にはなかなか、その感覚が分からないと思います。あの頃はビル・ゲイツがBASICを作ってパソコンで何か事業をやろうという新しい世界があり、そういうのに惹かれてみんなパソコンをやりました。

川島
そうですね。最初に入ったソフト会社のころは、PCも出始めでしたし、MS-DOS よりもCP/Mのほうが有名でした。OS9とかCPMのほうがまだメジャーでしたね。『MS-DOSってなんどすか?』という本が出ていたくらいですから(笑)。

能登原
そのころCP/MのほうがOS的にはいいと言われていましたね。でも、PC-DOSといってIBMがパソコンをつくるときにMS-DOSを採用したから、それで逆転しましたね。IBMはインテルのCPUとマイクロソフトのOSを採用したのです。マイクロソフトは、BASIC言語の会社だったので、確かMS-DOSは86-DOSを開発者ごと買収し、それを改良して売り込んだのですよ。

川島
そうなんですか。ビル・ゲイツと一緒にマイクロソフトを立ち上げたポール・アレンが作ったのかと思っていました。

能登原
買収交渉の先頭に立って、それをMS-DOSというかたちで売り込んだのが、ポール・アレンだったと思います。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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