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2007年12月14日

川島 信幸さん(2)
株式会社豊通シスコム GIT事業本部 企画総括室

川島 信幸さん川島 信幸(かわしま のぶゆき)さん
株式会社豊通シスコム
GIT事業本部 企画総括室
ソフトハウス、NEC販売特約店でアセンブラやOSのEDITION、ボードの開発を経験後
1997年 豊通テレコム(現豊通シスコム)入社、福利厚生サービス開発後
2002年に現在の部署(GIT事業本部)へ異動、PM品質向上活動に従事
2007年10月より企画総括室のメンバーとして、人材育成、品質向上活動等を担当

コンピュータは自分でいじるものだった

川島信幸さん

能登原
あのころは楽しかったです。

川島
楽しかったですね。PC98が出たころで、PC98でMS-DOS使ってました。

能登原
今のパソコンは中身に触れないですよね。

川島
はい。当時のパソコンは、自分でいじれるものでしたね。「マイ・コンピュータ」ですから(笑)。

能登原
アセンブラだと全てがいじれますし。

川島
基本的にVRAMはいじるものだという前提がありました。

能登原
NECのパソコンならVRAMは自分たちでいじるものでしたけれど、そのあとAT機が出てきて、あれでVRAMがいじれなくなりました。VRAMはビデオRAMなのですが、画面に出すためのRAMをプログラムで直接書き換えてやる。BIOSなどを介さずに画面表示をダイレクトにいじくっていたんです。
アドレスがマッチングされていて、そこのアドレスに言語で書く。ある文字を書くと…

川島
画面が変わるんですよね。

能登原
それが画面にポンと変わるよう、ハードの領域にダイレクトに書き込めばね。

川島
そうですね。凝ったソフトはだいたいVRAMをいじったソフトでした。

能登原
そう、たくさんありましたね。そこをいじったほうがスピードはずっと速くなるのですが、でも「行儀の悪いソフト」と言われていました。

川島
僕は当時、人のつくったソフトをかなりいろいろ見たほうだと思うのですが、ソフトウェアにはその人の性格が出ますね。ずぼらな人はだらだら長く書くし、体系的に考えられる人はちゃんとモジュール分割してつくっているし、両極端と言うか。ソースを見ると、「あ、この人はできる人だな」というのが分かりますよね。

能登原
それは分かりますね。

川島
特に東芝のときには、アセンブラで作られたOSも見ていたので、ほんとうに無駄なく作ってあるというのがよく分かりました。

能登原
昔はまだメモリも少なかったから、そういうふうに作らないと入らなかったというのもありますよね。

川島
今でこそギガ単位でメモリを持っていますけれど、当時は考えられなかったですよね。ハードディスクはメガ単位でしかなかった。

能登原
ビット数の関係で、メモリのアドレスがそこまでしか設定できないのです。

川島
昔は8bitとか16bitでしたからね(笑)。
そのころ、僕はとにかく、パソコンの仕事ができればいいと思って、パソコンのいろいろなことをやりました。今のようなプロマネがなくて、全部SEでした。「できるSEか、できないSEか」という評価しかなかったので、自分はSEとして何ができるのか考えました。設計をしたりユーザーと話をしたり、多岐にわたって何でもできるようにしておかないといけないのかなというのもあって、いろんなことをやってみたいと思ったのです。

能登原
そうですね。私も最初にアセンブラやパソコンをやっておいて良かったと思っています。まずマイコンをやることによって、CPUがどういう構造をしているのかという勉強になったし、アセンブラをやると非常に基本的なとこまで全ての動きが分かります。
今はもう外からは分からなくなってしまったけど、中身は基本的にノイマン型コンピュータで、何も変わってないわけです。それを一回勉強すれば、コンピュータに対する恐怖感はなくなります。

川島
変わってないですものね。新しい考えのコンピュータが出てくるという話は何度かありましたけど、実現されていないです。

能登原
今のところ新しいものは出ていないですね。逐次実行でやるだけで何も変わってないし、コンピュータには入力と出力とCPUという演算装置と補助記憶装置という4つのモジュールしかない。その構造は変わってないのです。その基本的な構造と動きが、マイコンとアセンブラをやったら全部分かりますよね。

川島
分かりますね。むしろ僕はCを最初にやったとき、Cの関数はあまり好きじゃなかったのです。「この関数は怪しい、自分で組んだほうが早い」みたいな気持ちがあって。

能登原
昔はね、Cコンパイルもバグがありました。

川島
MS-Cにも(笑)。

能登原
だからCは一回アセンブラに落としてから機械語に変換していました。それを中間で見ると間違っていたりしましたね。「あれ? これでいいはずなのに、どうしても動かない」ということがあって、一回中間のアセンブラで見ると、「おかしいじゃないか」というのが分かって、違う書き方をしてコンパイラを通すということをやっていましたね。

川島
やっていました。コンパイラは怪しい時代がありましたから。コンパイラのバグがけっこうありました。

能登原
そうですか。私はホワイトスミスCというのを一回使ったのです。それもバグだらけで大変でした。

川島
コンパイラが怪しい時代というのも珍しいですよね。

能登原
ほんとうに苦労しました(笑)。

ボードを制作する会社へと転職

能登原伸二

能登原
川島さんはそのようなソフト会社をいくつ経験されたのですか。

川島
最初に入った会社と、次に制御系の小さいソフトハウスに移って、そこでデバイスドライバとか作っていたときの取引先が、三番目に入った会社です。前の会社を辞めると言ったら「うちへ来てくれ」と言われて入りました。
今度の会社はボードを作っていて、音声ボードとかファックスボードも作りました。そこに載せるアプリケーションも外部委託で作らせて、販売もしていました。
今はファックスでも取り出せる音声ガイダンスの情報ボックスがあるじゃないですか。ああいうものの走りをパソコンで作っていたのです。

能登原
確かに必要ですものね。

川島
ファックスボードは、中のファームウェアも設計して作っていました。当然PC側のデバイスドライバも必要なので、デバイスドライバも作ったりしていました。95とNT4.0が出てきて、Windows全盛時代に入ってきていたところですから。

能登原
そうすると95年ですよね。

川島
はい。NT4.0もこのあと出てきたので、こういう製品もNT4.0対応しないといけないと、NT4.0のカーネルドライバもつくりました。I/Oドライバだったんですけれど。
このときに日本語で書かれた資料が何もないのですよ。マイクロソフトからはDDKとかSDKと言われる開発キットが提供されていて、英語の文献はありました。ですからそれを翻訳ソフトで翻訳しながら、頼りはサンプルソフトでしたね。サンプルソフトは世界共通ですし、プログラム言語には国籍がないので、それを見ながらつくりました。

能登原
そういうボードも全部、Windows95対応もしないでやられていたのですね。

川島
はい。けっこう大変でした。幕張メッセのショーに製品を出したり、そういった出展アテンダントもやりましたし、セミナーも一回やらされましたよ。

能登原
そんなことまでやられていたのですね。

川島
ボードを作ったあとは基本的に保守業務ですから。問い合わせ対応とか、バージョンアップしたりとか。営業が売りに出すときには技術者も引っ張り出されるので、連れて行かれましたね。

能登原
作った製品を売らないと、自分たちの飯の種にならないですからね。

川島
この会社にいるときに言語で一番つまずいたのが、C++とWindows3.1が出てきたときで、クラスの概念というかオブジェクトの概念が今までのアセンブラとCと違うので戸惑いました。

能登原
私もそうです。今でもよく分かってないです(笑)。

川島
思ったように動かせないのです。あまりにもクラスライブラリがいろいろあり過ぎて、どれをどう使ったらいいのか分からない。でもそういうWindows上で動く製品も作らないといけないので、「どうやって作ったらいいんだ」と、かなり悩みました。
特にファックスなので、MH方式とかMR方式とかMMR方式という特殊なファックスの符号化方式があるのです。そのデータが直接PCに保存されるのですが、それを画面に表示しないといけないのですけど、これをMH方式でソフトデコードしてWindowsの画面に出すようなソフトを作っていました。MH符号でデコードするときにCでは遅いので、結局ここでもアセンブラを使いました。C++なのですけど、中にアセンブラを全部インプリメントしてガーっと作っていました。速度の問題もありましたし。

能登原
ああ、速度の問題はありますね。

川島
はい。C言語でデコードしていると、たぶん1ページ出すのに10分かかると思うのですが、10秒ぐらいでバーッと出さないといけない。CPUが遅いですし、メモリもないですからね。今のパワーなら、たぶんサッと出ると思うのですが。

能登原
今は一瞬で出るんじゃないかな。このころは大変でしたね。

ウェブの勉強が縁で豊通シスコムに

川島信幸さん

川島
その三社目で、暇になっていたときにウェブ系の研究をしていたのです。ASPはまだ生まれてなくて、IDC、HTXという二つのファイルでHTMLの画面とデータベースの検索をしていたころです。IISの2.0というマイクロソフトのウェブサーバーの研究というか勉強をしていました。

能登原
もうその段階で、「これからはウェブのほうに行こう」と考えていたのですね。

川島
そうですね。何か新しいことを考えないといけないと思って、勉強をしていました。
そうしたら、豊通シスコムの前身の会社で、たまたまその技術者を探していて、「君はウェブを勉強しているし、暇だからサンプル作って」と言われたのです。通常だと絶対サンプルを作ったりしない会社なのですけれど、たまたま暇だったので「いいよ」と言ってサンプルを作りました。そうしたら、依頼主はIDCとHTXを使ってウェブのソフトが作れるのだというのが分かって、正式に仕事が来たのです。ですから最初は「何か作ってよ」とか言われて、「ええ、タダで作るんですか」(笑)みたいな感じでした。

能登原
その依頼主が豊通シスコムさんだったのですね。

川島
今のシスコムの前身です。シスコムも二回合併しているので、ややこしいのですが、「豊通テレコム」という会社が今の会社の大本で、そこから仕事を受けてやっていたんです。

能登原
それは会社で受けたのではなくて、川島さんがお一人で受けたのですか?

川島
いや、会社で受けたのですが、個人的なキャパで「いいよ。やってあげるよ」(笑)という感じでしたね。豊通テレコムは、豊通の親会社の情報電子部門が分社化してできた会社なので、その頃は携帯電話の販売が主でした。ですからうちの会社の半分以上は今も携帯電話を扱っています。
携帯の収益がよいときに、新しい事業を考える部ということでいろいろなことをやっていたんです。

能登原
新しい事業に挑戦しようとしていたのですね。

川島
はい。その中の一つに「MCネット」という福利厚生のサービスがありました。端末を使っていろんな福利厚生のサービスをしましょうというもので、そのコンテンツをIISを使ってやっていたんです。

能登原
なるほど。そこに結びつくのですね。

川島
そのメンテナンスをする人間がいないということで、たまたまどこでどうつながったのか分からないのですが、「そういうのはできる? ほんとに?」「じゃあサンプル作ってみてよ」と言われて、作ってみせたら「ほんとうにできるんだ」ということで、本体の仕事がバーッと流れてきました。その仕事の関係もあって、今の会社にまた転職することになりました。

能登原
それは何年ぐらいのことですか。

川島
10年前ぐらいですね。私は97年の8月入社なので。そのころはまだ豊通テレコムでした。このあとに、親会社の電算室から分社したTICという会社と合併して豊通シスコムになったんですよ。さらに一昨年、トーメンの子会社2社と合併して、現在の豊通シスコムになりました。
何かややこしいですよね。会社の中でも転職したようなものです。

能登原
でも97年からというともう10年ですから、もうキャリアの半分ぐらいはシスコムさんでのご経験になられていますね。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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