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2008年5月 2日

野村 一行さん(1)
マイクロソフト株式会社 デベロッパー&プラットフォーム統括本部 パートナーテクノロジー推進本部 エバンジェリスト

野村 一行さん野村 一行(のむら かずゆき)さん
マイクロソフト株式会社
デベロッパー&プラットフォーム統括本部
パートナーテクノロジー推進本部
エバンジェリスト
1995年にマイクロソフトに入社、主にマイクロソフトの最新技術の紹介、技術啓発を担当。2003年よりアーキテクトエバンジェリストとして、マイクロソフト技術だけでなくIT技術者が求めるアーキテクチャ関連の情報を、様々なイベント、アーキテクトコミュニティやWeb、雑誌などを通じて発信しITアーキテクトの啓発、認知向上に努めている。またマイクロソフトが提唱する「Software Factories」イニシアチブにてソフトウェア開発の工業化アプローチの普及にも従事し、「ソフトウェアファクトリー」(日経BPソフトプレス刊)の監訳を担当。

組織に依存せずに生きるためのキャリア選択

野村一行さん

能登原
野村さんはマイクロソフトでずっとアーキテクト・エバンジェリストをされていらっしゃるのですよね。

野村
はい、エバンジェリストです。

能登原
この道に入られたきっかけは、何かおありだったのでしょうか? たぶん高校か大学のころにコンピュータに興味を持たれて、IT業界に入られたのではないかと思いますが、まずその辺からお話をお伺いできればと思います。

野村
私がエバンジェリストになるまでの道のりは、けっこういろいろな紆余曲折がありました。大学を卒業する前に、どういう業界に進もうかと考えますよね。今の学生さんほど真面目ではありませんでしたが、私も一応考えました。その時に、組織に依存して仕事をするような生き方はしたくなかったのです。できれば、個人としても何とか食べていけるような技術を身につけたい、いわゆる手に職を持ちたいという思いが強かったのです。
日本の典型的な会社、特に大きな会社だとなおさら、まずは営業を経験して、それから別の部署をいくつか回って、何年かしてから初めて自分のやりたい仕事ができるというコースが一般的だと思いますが、その時の私は「自分がほんとうにそんなことを我慢できるのかな?」と思っていました。小さな会社でもいいので、最初から自分のやりたいことができるような業界にしようということで、いわゆるIT業界、その当時だとソフトウェア業界ですが、まずは就職して3年くらい頑張ってみようと思ったのがきっかけです。
それで、3年くらいたったら自分がその道で生きてゆくか、別の業界で働きたいか、改めて考えてみようと思ったのです。

能登原
大学での学科は、情報技術系ではなかったのですか。

野村
文系だったのです(笑)。

能登原
何を専攻されていたのでしょうか。

野村
社会学です。それもそんなに一生懸命勉強しなかったので、そのまま社会に出て役に立つというわけではありませんでした。ただ、そのときのゼミの教授がいろいろと好きなものをやらせてくれ、あまり社会学とは関係ない心理学関係の本を読んで議論したりするのが面白くて、そのまま居着いてしまったのです。
ですから入社後は、仕事で即戦力になるわけでもなく、最初の1年はほとんど雑用と勉強でした。勉強も、大きな会社に入ればそれなりの研修プログラムを用意してくれたのでしょうけれども、小さな会社なので、ほんとうに見て覚えるか、先輩が少し暇なときに聞きに行くということしかできなくて、それがちょっと心残りですね。

能登原
もっとちゃんと勉強しておけばよかったと(笑)。

野村
ええ。そのときは、将来は違う道に行くかもしれないので、とりあえず自分のやれることをやって3年間くらい頑張るつもりだったのですが、就職して1年半ぐらい過ぎたところで、その当時属していた部署の、上司とその片腕の方が相次いで辞められました。スピンアウトして別の会社に行って、新しい事業部を立ち上げ、そこで自分たちがやりたかった仕事を始めたのです。私も縁あって、そこに声をかけていただいたのです。
一応自分の中では「3年」と考えていたので、ちょっと悩んだのですが、上司がスピンアウトすると、そもそも私のいた部署そのものがなくなってしまうという事情がありました。当時、その部署ではパッケージソフトを開発していたのです。しかし会社自体は、基本的には受託開発を中心にやっているソフトハウスだったので、「会社に残ると、これから先、受託開発を中心にずっとやることになるだろう。自分がやりたいのはそういう請負の仕事だったのかな」と考えました。やはり、自分はクリエイトする側に回りたいからこそ、この業界に入ったという気持ちがあったので、生意気な言い方ですけども、そこで最初の会社に見切りを付けて、上司と先輩たちがいる会社のほうに移りました。その当時、私を入れて、社員は4人か5人でした。
そこで初めて、プログラムらしいプログラムを組ませてもらったのです。

能登原
まさにベンチャーですね。

野村
ええ。「書けない人間は要らないよ」くらいの小さな所帯ですから、否応なく、書かざるを得ないですよね。それまでも、もちろん書いてはいたのですが、ほんとうに受託開発のシステムの中の、さらに2次請けの中のごく小さな部分でした。全く全体が分からないままに、「このインプットがあって、このアウトプットを出すような関数をいくつか作ってください」というのが次から次へとやってくるのを、言われたように書いているだけなので、仕事としては全然面白みを感じなかったのですよ。

能登原
分かります。

野村
それもあって、自分はもっとクリエイトする側に回りたい、小さくてもいいから「製品を作っている」と言えるような仕事をしたいという思いもあったので、「君を入れても4人か5人だよ」と聞かされていても、それほどためらいなく移りましたね。

能登原
それ以前に居られた会社も、そんなに大きい会社ではなかったのですよね。

野村
そうですね。一番大きくなったときでも100人はいかなかったですから、比較的小さい会社です。主にF社さんの仕事を2次請けでやっていました。そこで私が最初に配属された部門が、非常に幸運なことにワープロソフトなどパッケージの開発をしていました。その当時、これからのエマージングな技術としてDTPに携わってこられている技術者が何名かいて、そこのお手伝いをさせていただいていたので、「あ、パッケージソフトってすごく面白いな」と、そこで刷り込まれてしまったのです。
ほかの同期の人間は、半年ぐらいすると、だいたいみんな常駐でどこかに行って、COBOLで何か書いているという世界でした。でも、私はずぶの素人だったのですが、最初からパッケージのほうに配属されたので、最初にやらされた言語がC言語でした。いきなりポインタとか言われても、訳が分からなかったです(笑)。

能登原
それは、訳が分からないですよね(笑)。カーニハン&リッチの「C言語」を読まれてやり始めたのですか。

野村
カーニハンも勧められましたけども、あれは素人が最初に読む本ではないですよね。難しすぎました。ほかにもいろいろと入門書っぽいものを読んで、あれこれ考えながらやっていましたけれど、それでもやはり、一番覚えたのは実際の現場に放り込まれたときです。もうこうなると、とにかく何か書いて動かさないと(笑)。

能登原
やるしかないですからね。

野村
結果的には、ある2次請けでのプロジェクトに放り込まれ、実際に使えるCの書き方を先輩と一緒に教えてもらいながら、何とかこなしていたのが、だいたい2年目の春ぐらいでした。ちょうど入社1年経ったくらいから、そんな感じで仕事をさせてもらっていたわけです。
次に、上司に誘われた会社は、当時Adobeのイラストレーターと似たようなDTPソフトの最初のバージョンを開発していて、国産ではかなり早い段階で、ウインドウシステムも使っていました。

能登原
そのときはまだDOSですよね。御社のMS-DOS(笑)。

野村
そうです。何を扱っていたかというと、デジタルリサーチ社という会社がありまして、CP/Mとは別にGEMというウインドウシステムをMS-DOS版で作って提供していました。
ですから、私の最初のウインドウ体験はWindowsではなくて、デジタルリサーチ社のGEMなのです。GEMが何の略だったかはもう思い出せないですけど、古いWindowsと非常によく似た感じのものでした。あのウインドウというのが、私にとっては衝撃でしたね。

能登原
そうですね。

野村
マウスが使えるというだけでも、すごい。で、しかも、それまでは自分が全部プログラムを呼び出していたのですが、ウインドウシステムは、それとちょうど考え方が反対になります。自分が呼ばれる側になって、呼ばれたときに何をやるのかという考え方をそこで学んだので、結果的にはWindowsが来たときも、そんなに慌てないですんだのです。

能登原
なるほど、なるほど。

会社を辞めて旅したインドで考えたこと

能登原伸二

能登原
でも結局は会社を辞めてインドに行かれましたね?

野村
実は3年くらいたったら一度日常から離れてこれからの生き方を考え直してみたいと漠然と思っていたのです。日常から離れてといっても会社を辞めて、というところまで具体的に考えていたわけではないのですが、学生時代に読んでいた本に触発されてインドに一度は行ってみたいという気持ちは持っていました。仕事にも色々不満が溜まっていたこともあり、抑え続けていたインドに行きたいという気持ちが、どうしても抑えられなくなってしまいました。結局その会社にも2年半くらいしかいなかったのです。当時の上司に「ちょっとインドに行ってみたいのですが、また会社に戻って来れますかね?」という話を振ったのですが、「ちょっと無理そうだね」と言われてしまったので、「分かりました。では辞めさせていただきます」と(笑)。今考えれば、もうちょっと上手な立ち回り方もあったかなと思うのですが。

能登原
なるほど(笑)。

野村
はい。去年もインドIT研修の見学にいきましたが、会社を辞めてインドに行ったときも、まずプネに行ったのですよ。

能登原
そうですか。何年かぶりのプネ再訪だったのですね。

野村
もう17年ぐらい前になると思います。

能登原
インドのいろいろなところを回られたのですか。

野村
何ヶ所か回りました。最初プネに2週間くらい滞在して、次に汽車でデリーへ行って、カジュラーホ神殿があるアーグラに行ったり、あとは当時ベナレスと言っていたバナラシでガンジス川を見て。

能登原
なるほど。そこで沐浴も経験されたのですか。

野村
いえ、沐浴している人を見ただけです。一緒に沐浴をしようと思ったのですが、その当時は乾期で水が特に汚い時期だったので、沐浴する勇気がなかったのです。

能登原
そうでしたか。

野村
でも、隣できれいなインドのお姉さんが、ほんとうに信心深くガンジス川の水を飲んでいるところを見て、自分は何て不真面目なのだろうと、何かすごく深いところで「負け」を痛感しました。単なる物見遊山で来ているのと、ほんとうに信仰を持っている人の差ですよね。川の水は濁っていて、何が入っているのか分からない。何でも流していますからね。

能登原
そうですよね。人を火葬にした灰も流しているという話を聞きます。

野村
実際に私はそのとき、川岸で人を焼いているところも見ました。あれがひょっとしたら生焼けで流れるのかなと思うと、飲むどころか中に入る気もしないです。

能登原
それは無理ないと思います。

野村
それなのに、その水を飲んで、神に近づいた表情の人々を見ていると、すごく自分が恥ずかしくなりました。自分自身も恥ずかしいし、日本人としても恥ずかしいというのか…そういった意味では、あの最初のインド旅行は一つの転機でした。仕事とは関係ないのかもしれないですけど、人生を考える転機にはなったと思います。

能登原
そのときは、野村さんはバックパッカーといいますか、リュック一つで安いところに泊まりながらという旅行だったのですか。

野村
そうですね。ほんとうに安いところは、ドミトリーと言って大部屋になるのですが、そこは危ないこともあると聞いていたので避けました。その当時、ほかに二人くらい友達が一緒に旅行していたので、なるべく一緒に泊まれるような部屋、ツインやトリプルをとって、それでもなるべくお金かけないようにしていました。中途半端と言えば中途半端な旅でしたが、苦行が好きなタイプでもないので、普通に眠れるところを探して泊まり歩いていた感じです。でも、2ヶ月くらいしたら日本が恋しくなってきました。
インドは1回のビザで3ヶ月滞在できるので、まわりには3ヶ月ぎりぎりまで、場合によっては一回日本に戻ってまたインドに戻る人もいましたが、さすがにそこまでの覚悟がなかったので、結局2ヶ月ちょっとで日本に帰って来ました。
日本のペースとインドのペースはずいぶん違います。生活も違うし、考え方も違う。インドに2ヶ月もいて、ましてや一度仕事を辞めて行った身ですから、完全に世捨て人みたいな感じになってしまって、帰国してしばらくは日本社会のペースに馴染まなかったですね。

能登原
私もプネには弾丸ツアーで行きました。ビジネスで行くとそんなに感じませんが、現地の生活に入ってみると全然違うものですか。

野村
そうですね。ムンバイ(ボンベイ)に寄ったときに、タージマハールホテルにTシャツとジーパンの汚い格好でふらっと入ったことがあるのです。ほかの人たちはパリッとした格好で、コース料理食べたりしている高級ホテルです。そこでトイレに行くと、トイレの中におじさんが一人立っている。「何で立っているんだろうな?」と思ったら、手を洗うとタオルを出してくれるのです。「どうぞ」って。

能登原
で、そのおじさんにチップを払うのですね。

野村
ええ、いろいろなところで、そういうチップで生活している人を見たり、「ここの人たちは一日1ルピー以下で暮らしているんだよ」という貧しい地域を、力車やタクシーで通って行ったりすると、その人たちと自分たちは、見た目は同じような格好をしているんです。でも中身が全然違います。私たちは仕事もせずふらふら遊び回っていて、現地の人は家族もいるでしょうに、こうやって一日中働いてやっと生活できているという違いを目の当たりにして、それもすごく恥ずかしくなりました。自分は心理学や宗教や哲学が好きでやっていたけど、目の前にあるのがまさに現実で、それも知らずにずいぶん浮世離れした思いを抱いてインドに来てしまったなという気持ちと、その恥ずかしさがない交ぜになって、なんともいえない気持ちになりました。それまではちょっと子どもじみた「頑張れば何でもできるさ」という気持ちがあったのですけど、「世の中にはどうにもならないことっていうのがあるな」ということをインドの中でいろいろと目の当たりに見てしまいましたから、世の中はそんなに単純ではないのかもしれないと。

能登原
そうですね。私はアイ・ティ・イノベーションというベンチャーにいますので、とりあえずは「何でもできる」と思ってやっていますけど、やっぱり厳しい現実はいろいろありますからね。それはやはり、体験しないと分からないですよね。

野村
ええ。生きるということは自分一人だけの問題ではなくて、家族だとか、親しい人たちがいて、自分が社会の中で生きているということを実感しました。その当時はそんな格好いい言葉ではまとめてないですけど、今から振り返ってみると、そんなふうに思いましたね。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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