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2008年5月16日

野村 一行さん(2)
マイクロソフト株式会社 デベロッパー&プラットフォーム統括本部 パートナーテクノロジー推進本部 エバンジェリスト

野村 一行さん野村 一行(のむら かずゆき)さん
マイクロソフト株式会社
デベロッパー&プラットフォーム統括本部
パートナーテクノロジー推進本部
エバンジェリスト
1995年にマイクロソフトに入社、主にマイクロソフトの最新技術の紹介、技術啓発を担当。2003年よりアーキテクトエバンジェリストとして、マイクロソフト技術だけでなくIT技術者が求めるアーキテクチャ関連の情報を、様々なイベント、アーキテクトコミュニティやWeb、雑誌などを通じて発信しITアーキテクトの啓発、認知向上に努めている。またマイクロソフトが提唱する「Software Factories」イニシアチブにてソフトウェア開発の工業化アプローチの普及にも従事し、「ソフトウェアファクトリー」(日経BPソフトプレス刊)の監訳を担当。

Windows用パッケージアプリケーションの開発会社へ

野村一行さん

能登原
インドで2ヶ月過ごされ、帰国した後、しばらくして就職されたのですね。

野村
そうです。そのときが、IT業界以外の違う業界に転職する機会だったのかもしれないのですが、インドでの体験で自分の甘さを自覚して帰って来たところもあるので、それはしませんでした。「自分の生きるところはITの世界しかないのかな」と思いましたし、前職でパッケージソフトを作っていて、そのような仕事は気に入っていたので、似たような会社を探しました。結局マイクロソフトに入る前にお世話になった会社に転職し、本格的にWindows用アプリケーションの開発を始めました。

能登原
Windowsそのものではなく、その上で動作するアプリケーションを作られていたということですね。

野村
ええ、Windowsの上で動くパッケージアプリケーションを作っていました。

能登原
それは95年ぐらいのことでしょうか。そうすると、まだWindows 3.1の時代ですか?

野村
前職に就いたときはまだ日本語版Windowsバージョン2が出始めたころです。89年だったと思います。

能登原
ちょうどバブルが終わりかけくらいのときですね。

野村
世の中の雰囲気としては、バブルの余韻が少し残っていましたけど、私には全然関係のない感じでした(笑)。

能登原
ということは、バブル真っ最中にインドに行かれたのですね。

野村
そうかもしれません。でも、働いていた会社がすごく景気がよかったわけでもなかったですし、その当時はそれがこの業界の普通の姿と思っていましたから、バブルの実感がないのです。今で言う3K職場っぽいところもありましたし。

能登原
あのころは、そうでしたね。

野村
ええ。徹夜を連続何回やったのが自慢とか、そういう先輩がたくさんいて、自分は体がそんなに丈夫なほうではないので、「すいません。徹夜しちゃうと疲れがなかなか抜けないんですよね」と言って、「なんだ、だらしないな」とか言われていました。それが当たり前の世界、それが普通だと思って仕事をしていましたね。

能登原
それに、あの当時は作ることに関して、何か今と違ってすごいエネルギーがありましたよね。

野村
ええ、ありました。

能登原
その中で、まだマイクロソフトもベンチャーでしたね。

野村
そうですね。マイクロソフトはまだ日本ではそれほど大きなインパクトは与えていなかったと思います。当時、私にとっては、日本一のソフト会社はジャストシステムでしたから(笑)。
ジャストシステムがあって、アスキー、ロータスが続いて、それからちょっとツール関係の会社が一つ、二つあって、マイクロソフトっていうのは私にとっては6番目とか7番目ぐらいでしたね。

能登原
そうだったかもしれませんね(笑)。

野村
「マイクロソフトって、MS-DOSを出している会社でしょ」と(笑)。Cのコンパイラも、仕事ではマイクロソフトのCコンパイラではなくて、別の会社のコンパイラを使っていましたから、私にとってマイクロソフトは、MS-DOSの会社でしかなかったのです。

能登原
なるほど。ほかにもボーランドとか、Turbo Cとかいろいろありますけれど、僕はマイクロソフトのCをずっと使っていましたね。順番に、確か6.…いくつかまで。

野村
私はそのときつかっていたCは何だったか…今思い出せるのでは、ラティスですね。

能登原
ああ、LatticeCというのがありましたね。

野村
あとは、当時F社の仕事を請け負うことが多かったので、その会社のCコンパイラも使っていました。同じCでも複数の選択肢があったので、なぜかマイクロソフトのCを使わずに、ほかのものを使っていましたね。

能登原
戦国時代じゃないですけど、ツールも言語もいろいろあって、そういう面でまた面白かったですね。

野村
そうですね。選択肢がありました。今、それを言うにはちょっと複雑な立場ですけど(笑)。
前職に入社したときにも、それ以前にGEMというウインドウシステムを使っていたので、一応Windowsの基本的な考え方は分かっていましたし、その当時WindowsのAPIを駆使して、アプリケーションを作るという作業にも、わりとすんなりと入れました。あとは、個々のAPIの違いを意識しながら、だいたいは一対一でやりたいこととマッピングできるような感じでしたから、その辺りはあまり抵抗なく入れたのです。そこも私を含めて3人という、非常に小所帯なチームでした。会社自体も、社員が20人いたことはないという小さな会社でした。

能登原
ほんとうにベンチャーですね。

野村
ベンチャーです。でも、その当時の経営者や、何人かのプログラマーが、「これからはWindowsだ」と考えていて、面接のときにも「マイクロソフトのWindowsで商売していこうと考えているから、そういう人間がほしい」と言われました。当時はまだ、小規模の会社で「Windowsをやりましょう」というところは比較的少なかったのです。私にとっては、社員が100人超えると大きな会社だったのですが。

能登原
あの当時の野村さんにとって、それこそジャストシステムが「大きい会社」だったのですね。

野村
そうですね。100人を超えるような会社の中の一部門が「Windowsをやります」というケースはぽちぽちと出始めてはいました。でも、やはり最初から作るところをやりたかったし、全体が見える仕事をしたかったので、比較的小さな会社をまた選んだわけです。

能登原
なるほど。

野村
その当時、ちょうどある製品のバージョン1が追い込みにかかっていたので、そこに放り込まれて、完成までやりました。それが完成したあとに、「ちょっと違った毛色のものを作ってみようか」ということで、今では全然珍しくないですけど、ビットマップ、つまり画像の管理データベースをパッケージ化して売りだそうという企画が出たのです。
チームに3人しかいないですから、その中でわいわいとやっているうちに、じゃあ「お前メイン書いてみるか」と言われたのです。WinMain関数のことです。残りの二人、一人は上司、一人は先輩で、私が一番若輩者だったんですけれども、メインルーチンのところを任されて、残りの二人がいろんなフィーチャーを足していくというようなかたちになりました。アーキテクトではないですが、一応システムの全体を見ながら、その二人からもらうコンポーネントやフィーチャーをくっつけながら、全体として仕上げていくところをある程度任されました。パッケージ開発に携わり、WinMainも書かせてもらったので、仕事としてはやり甲斐もありましたから、多少無理しても意欲で突っ走ったという感じです。

能登原
分かります。あれをやっている最中は楽しいですよね。

野村
そうなんですよ。土曜日でも、何かちょっといい案が浮かんだら会社にやって来て作ってみるとか。そうしたら、ほかのメンバーもやって来たりして(笑)。そうこうしながら、だいたい自分がパッケージ開発としてやりたかったことの多くは、ここで実現できたかなと思ったのです。

仕事は面白い、しかし先が見えない辛さ

野村一行さん

野村
そこの会社には結局5年近くいましたが、3年経った頃から、「これでいいのかな」と思い始めました。小さな会社ですから、ビジネスの上がり下がりの波もありますし。

能登原
小さいと、経営的には安定していないですよね。

野村
ええ。ちょっと落ち着いて周りを見てみると、人間関係の問題もありましたし、バブルが弾けて、業界が全体的に落ち込んできていた時期でもあったので、景気がいいときには小回りが利いて、自分たちのやりたいことがすぐできるというメリットが、今度は「仕事がない」とか「ものが売れない」というデメリットに変わっていく時だったのです。
自分はそれまでずっと技術一本でやってきた人間で、電子メールさえ使ったこともないし、ワープロもほとんど使ったことがなかったのです。文書を書くときはエディタでした。

能登原
はい、よく分かります(笑)。

野村
それまでは一所懸命プログラミングしたり、いいと思われるフィーチャーを入れてゆけば、よい仕事をしていると思っていたのですが、自分の勤めている会社がどのようなビジネスをしているのか、自分たちの作っているパッケージソフトはどのように売れていっているのかということに対してあまり真剣に考えていなかったことに気付きました。自分は技術者ですから、モノ作りに対してプロ意識は高かったと思いますが、会社のビジネスとしてどのように貢献しているのか、どうしてゆけばWindowsアプリケーション開発会社として業界のなかで影響力を高めることができるかということを考え、実践してゆくことの一手段が製品開発だったことに遅まきながら気づいたのです。
確かに技術者としては面白かったのです。私たちが開発した製品を当時マイクロソフト株式会社社長の古川さんがわざわざ会社まで見に来られたり、外国のISVが自分たちの製品を研究していると聞いてちょっと誇らしく思ったりしました。また、Windows 95はかなり早い段階からマイクロソフト米国本社から直接ベータ版をもらって色々試していました。ようやくマッキントッシュに追いつこうとしている時期だったので、今まで作っていたものにマルチメディア系の機能をちょっと追加しようというアイディアを出したら、マイクロソフトの本社から人がやって来て、「じゃあちょっと早めに出してあげるよ」と、マルチメディア関係のコンポーネントをもらったりもしました。そうは言っても、会社はビジネス的に非常に苦しい時期で、自分もこのままプログラミングだけをやっていても成長できないのではないか、だけどどうすればよいのか方向性を見失っているころでしたね。技術者として大変だけど楽しい面と、これからのキャリアをどうしてゆけばよいのかという不安、そのあいだで揺れている時期でした。

能登原
なるほど。もう中堅の時期ですよね。もうこの業界に入って7、8年経っていますから、ソフトウェアのエンジニアとしては、一番の働き盛りですね。

野村
ええ。

能登原
あのころは、「40歳定年説」とかいろいろ言われている時期でしたし、気持ちは揺れますよね。実際に、自分が40歳を超えてみると、そんなこともなかったのですけれど。

野村
そうですよ。今考えると、何か世間に騙された気がしますよね。

能登原
あの当時。30歳ぐらいが、エンジニアとして一番油が乗り切ったころで、あとは下り坂みたいに言われていました。

野村
ええ。「自分もあと3、4年経ったらそろそろ下り坂なのかな」と考えましたし、転職するにしても、35歳が一つのボーダーラインじゃないですか。もし今の会社でずっとやるのでなければ、遅くても33、34歳くらいまでには次のことを考えないとまずいと思いました。「自分自身の可能性を止めないために、転職も含めて33、34歳くらいまでには答えを出さなければいけないな」と考えていたので、マイクロソフトに転職するまでの3年間くらいは、私にとってはかなり苦しい時期でした。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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