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2008年6月 2日

野村 一行さん(3)
マイクロソフト株式会社 デベロッパー&プラットフォーム統括本部 パートナーテクノロジー推進本部 エバンジェリスト

野村 一行さん野村 一行(のむら かずゆき)さん
マイクロソフト株式会社
デベロッパー&プラットフォーム統括本部
パートナーテクノロジー推進本部
エバンジェリスト
1995年にマイクロソフトに入社、主にマイクロソフトの最新技術の紹介、技術啓発を担当。2003年よりアーキテクトエバンジェリストとして、マイクロソフト技術だけでなくIT技術者が求めるアーキテクチャ関連の情報を、様々なイベント、アーキテクトコミュニティやWeb、雑誌などを通じて発信しITアーキテクトの啓発、認知向上に努めている。またマイクロソフトが提唱する「Software Factories」イニシアチブにてソフトウェア開発の工業化アプローチの普及にも従事し、「ソフトウェアファクトリー」(日経BPソフトプレス刊)の監訳を担当。

心理学を学びながら、悩み多き時期を耐える

野村一行さん

能登原
ご自分がどういう方向に生きるか、悩まれた時期でもあったわけですね。

野村
その当時も、半分はその苦しさから逃れるために、友達と心理学や哲学の読書会をやったり、セミナーに参加するなどして乗り切りました。何とかその日その日の仕事をしながら生きていた感じです。みなさんの参考になるかどうか分からないですけれども。

能登原
私も哲学や心理学に興味があって、なぜ生きているのかなどよく考えたりしますが、野村さんはそのころ、哲学や心理学をどんどん深く考えることによって、また何か違うものが見えてきたりしたのですか。

野村
特に私がその当時興味を持って勉強していた心理学は、自己実現の心理学です。ビジネス関係でも名前が知られているアブラハム・マズローの提唱した心理学の一派ですね。それと、自己実現からもう一段階上の、しばしば宗教体験で「悟り」といわれる経験も、実は心理学の延長線上に位置づけることができると考える一派などもいて、宗教的な興味とミックスされて面白かったのです。

能登原
なるほど。自己実現といえば「マズローの5段階」というのがありましたね。確か、最終段階が「賞賛」とか「名誉」とかだったと思いますが、その先にもまだあるということですか。

野村
ええ。例えば社会のことを考える、あるいはその先に「生きとし生けるものと自分はつながっている」という、昔ユングという心理学者が言っていた宗教体験のような世界がまだあるということを心理学の中で研究していたので、自分もすごく興味を持ってそういう勉強をしていた時期があったのです。

能登原
そうですか。逆にそういうことを勉強されたので、野村さんは自己が確立しているのですね。私がお話をお聞きしていて思ったのは、そういうことを一生懸命考えられたことで、自分一人でも生きていける、自立している部分があるのではないかと思います。

野村
それはあると思います。ただ、先ほども言いましたように、インド旅行の経験でかなりへこまされた部分もあったので、以前に比べれば、社会の中での自分を考えるようになりました。自己と他者というのは、社会で生きて行くための一つの方便みたいなものだから、本当の世界というのは自己も他者も関係なく一つにつながっている世界だという考え方もあるし、一方では「自分は自分」という考え方もあるし、両方がミックスされて、あるいはその間のバランスを取りながら生きているという感じだと思います。

能登原
なるほど。私も最近、心理学や哲学のようなものが好きになりました。
やはりベンチャー企業に移ってみると、周囲の人との関係をどうするか、自分自身も自己実現をどのようにこれから図ればよいのかと考えるようになりました。それはビジネスをしていく上でも、人間としても大切なことだと思います。

野村
ええ。人間としても大事だと思いますし、最近こういう仕事をしていて、実はシステム作りの中にも、そういう考え方が必要なのではないかと思っているのですよ。
システムを作るためのものの考え方と、それから個人というものを超えた哲学、宗教、心理学が一緒になったような考え方が、自分の中で並存している部分があるのです。一番単純な例で言うと、アジャイル開発の、人の個性を大事にしつつチームとしての力をいかに発揮していくかという考え方や姿勢などは、そういった考え方にもつながっている部分もあるでしょうし、またシステムは自律的な部分がいくつかの階層に積み重なって更に大きな全体として構成されているという考え方も、実は心理学の一派の中にはあります。それを「ホラーキー」というのですが、今のEAやSOAなどに、通じる部分があると思います。
専門家にとっては違うと言われるかもしれないですけど、自分ではそういうところにも何か不思議な縁を見出して、「こういう勉強をしてきたのも、無駄ではなかったかもしれない」と思っています。まわりに聞いてみると実は、僕がそれまで知らなかっただけで、やはり同じような本を「昔読んでいました」とか、「今でも読んでいます」という方が何名かいらっしゃいます。みなさん世間的には、ばりばりのアーキテクトです。

能登原
そうなのですか。

野村
やはり同じような悩みにぶつかったときに、アーキテクトが答えを求めるのは、ひとつにはそういう世界なのかなと思います。それまで自分は「この世界では単なる変わり者だ」と思っていたのですが、「いや、実はそうでもなかったんだ」(笑)と。

能登原
野村さんは、若いころから「一人でやっていこう」と考えて、転機を決めるときもご自分の考えをしっかり持たれて決められていますよね。確かに、そういうところは周囲と同じではなかったかもしれません。若いころはわがままじゃないですか。社会の中の自分の存在とか考えずに、とにかく自分のこと、年収だとか出世することとかを考える。そういう傾向は、30歳すぎくらいまでは特に強いような気がするのです。

野村
基本的には自分もそうでした。年収はそれほど気にはしなかったのですが、自分のことばかり考えていたのは同じです。「自分にもっと技術力があればもっと幸せな人生が送れるはずだ」という、そのモチベーションだけで生きていましたから(笑)。

能登原
ああ、なるほど。

野村
ええ。「明日この技術がもっとうまく使えるようになれば、もっと仕事が楽になる」というのを、毎日繰り返している感じで、それだけでした。でも、インド旅行まで含めると半年くらいのブランクというか迷いの中で、いろいろと考えさせられたものはあります。社会的にはちょっと長すぎるブランクだったのかもしれないですけど、自分の人生の中では無駄ではなかったのかなと思います。

能登原
それが野村さんのモラトリアムの時代で、今、仕事をする上でのバネになっているところもあるのでしょうね。

野村
そうでしょうね。社会的に言えば、本来はもっと早くそういう時期を通過するべきだろうと思うのですが、自分の人生のペースの中では、たまたまその時期にはまってしまったのでしょう。

Windows 95の発表とほぼ同時にマイクロソフトへ

野村一行さん、能登原伸二

能登原
そのあとマイクロソフトさんに転職したのですね。

野村
ええ。ちょうど、そうやって前職でいろいろとWindowsの上のアプリケーション開発をしているときに、新卒で入社した会社の同期がたまたまマイクロソフトでエバンジェリストとして働いていたのです。
まだ当時はWindows3.0が出る前ですから、アプリケーションが全然揃っていないわけです。ほとんど外国のものしかなくて。そこで僕が「今こんな仕事しているんだよ」と言ったら彼が興味を持って、会社に来てくれて、いろいろと情報をもらったり、そこからどんなものを作ろうかという議論に付き合ってくれたりしていたのです。そのうちに、彼自身も、「これからエバンジェリズムの仕事をもっと広げるためには、自分だけでは足りない」と考えたのでしょうね。そのときは彼ともう一人、合わせて二人しかエバンジェリストがいなかったのですよ。

能登原
二人ですか。エバンジェリストは「伝道師」という意味なので、マイクロソフトの技術や製品を宣伝するのが役目ということですね。

野村
そうです。僕もそのとき彼から、技術を宣伝して「次のWindowsはこうなりますから、この機能を生かしたアプリケーションを作ってください」という仕事だと聞きました。僕のほうもこのままプログラマとしてやって行くか、いろいろと模索していた時期でもあったのです。彼の話を聞いて、自分自身で書くということではなくても、マイクロソフトという会社の中で情報を発信しながら、ソフトを出すまで関わっていくのも、一つの成功のかたちではないかと思えたのが94年ぐらいだったのです。
そのあともずるずると前職で仕事を続けていたのですが、結局二人いたエバンジェリストの一人がいなくなって、彼一人になってしまいました。そここで、いよいよ「来てくれないか」という話をもらったので、踏ん切りをつけてお世話になったのが95年の夏でした。

能登原
ちょうどWindows 95が発売される直前ですね。

野村
そうです。自分自身はずっと、Windows 95上でいかに自分の書いていたアプリケーションを動かすかを考えていて、それを今度は人に作ってもらう側に回ったのですが、気持ちを切り替えるのに、ちょっと時間がかかりました。

能登原
なるほど。

野村
本当は、マイクロソフトに転職はしたけれど、一方で前職で中断していた製品コードを完成させたいという気持ちもちょっとあったのです。技術者としてのけじめとして、何か完成させたいという気持ちはあったのですけれども、もう入ってしまったら、エバンジェリストとしてやるべきことで毎日がいっぱいになってしまいました。人が足りないということで入ったわけですからね。

能登原
特に95が発売されてからは、大変だったのではないですか。

野村
ええ。その年の秋、9月だったか10月ぐらいに、有名になったカウントダウンのあとに秋葉原でイベントをやったのです。

能登原
カウントダウンというのは、深夜にみんなが並んだ、あれですよね。

野村
僕の記憶では、深夜0時カウントダウンというのはあれが初めてだと思います。
OSという一般のユーザからは直接は見えないソフトウェアの発売を、秋葉原のようなところで、しかも午前0時から発売をし始めるというのには、すごくびっくりしました。
それまでは自分はどこかで、「マイクロソフトはOSを作っている会社で、その上にアプリケーションが載らなければ、普通のユーザさんには何の意味もない」と思っていたので、単体のOSというものがあれほど大騒ぎされるものだったということにまず驚きました。

能登原
私もあの当時は、マイクロソフトは開発環境、言語、BASICやCの会社という認識でした。それがWindows 95が出てやっぱり変わりましたよね。

野村
変わりましたね、完全に。それまでAppleのマッキントッシュの世界にあこがれてはいたのですけど、Windowsがそうなるだろうとは正直思っていなかったです。
「ウインドウシステムとしてはけっこう完成度が上がったな」という気持ちはあったのですが、それでも歴史の積み重ねを考えると、マッキントッシュにまだまだ出遅れていた感がありました。でも、そのあとはすごかったですよね。技術的に一気に全部追いついたかどうかはともかくとして、ビジネスとしては完全にWindows 95で抜きましたからね。

能登原
あのとき、ちょうど私は企業の業務アプリケーションを作っていましたが、クライアント側PCのOSがWindows 3.1の場合、ある一定以上の規模のアプリケーションだとメモリが不足し、頻繁にシステムダウンを起こしていまい、困っていました。そこで、あの夏に思い切ってWindows95に全部変えて、その上で動かすことにしたのです。そうしたら、今まで苦労してやっていたことが解消されて、快適に動くようになりました。すごくほっとしたことを覚えています。切り替えて良かったなと思いました。

野村
まず技術者にとって革命的だったのは、メモリが好きなだけ使えるというところでしたからね。それまでのMS-DOSの世界は、Windowsも3.1までは基本的にDOSのアプリケーションの一つにすぎなかったので。メモリ管理が本当に大変で、それが一つの技だったりしました。それがもう、Windows 95が出た途端に、今までのその技が全部意味なくなりましたからね(笑)。自分の中のプライドが崩れ落ちた瞬間でもありました。

能登原
分かります(笑)。Windowsを基盤として、業務アプリケーションをして開発していた立場からすると、「Windows 3.1でずっとやっていたら、そのプロジェクトはもしかしたら失敗したかな」と思えるくらい、Windows95への移行は大きな進歩でした。

エバンジェリストとしての初仕事とは

野村一行さん

野村
それで95年の7月1日に、マイクロソフトに入社して今日に至るわけです。
Windows 95は、最初の32ビットアプリケーションを作れるOSでした。でも出たばかりですから、16ビットのアプリケーションしかありません。それを32ビットに互換してもらうための技術啓発活動が、僕の最初の仕事でした。つまり、今までWindows 3.0、3.1で動かしていたアプリケーションを「Windows 95で動かせるようにお願いします」ということです。「Windows 95はこういうOSで、こういうAPIのセットがありますから、こっちのほうに書き換えていけばWindows 95で相性良く動かすことができます」というようなことを、どれぐらいやっていたんでしょうか…次にNTの3.5が出るくらいまでですから、半年から1年ぐらいはそういうことをやっていましたね。ちょうど徐々にマイクロソフトの開発環境がWindows上でビジュアルな開発環境に変わっていったころだったので、それとセットにして、様々なISVさん、あるいはN社、F社、H社という大手の技術者さんのところに出かけて行っては説明をしていました。

能登原
なるほど。大手のメーカーさんは開発量が多いので、そのメーカーさんにコンタクトをとって、技術とかやり方を教えるというお仕事になるのでしょうか。

野村
そうですね。しかも入ったばかりですから、ほとんど自分が個人的に知っている会社なんてないわけですよ。かと言って、飛び込みみたいなかたちで、「Windows 95いかがですか」(笑)というのも変だと思ったので、まずは、僕を誘ってくれたエバンジェリストが持っていたリストを二人で分担していって、「今日はじゃあこっち、明日はこっちね」と二人で回ったり、一人で会いにいったり、そんなことを繰り返していました。その当時200社近くリストとしては持っていましたから、回るには十分過ぎる量でした。

能登原
キーマンを探して、その人に教えるということを、完全に無償でやるわけですね。

野村
もちろん無償です。本当に布教活動ですよね。その代わり、「Windowsのアプリケーション開発の対応をなるべく早くお願いします」というのが、こちらとしてお願いできる最大のところです。

能登原
そうするとWindows対応のパッケージを作っているところをメインに訪問するということですか。

野村
当初はそうでした。ですからN社、F社、H社さんの中でもパッケージソフトを開発している会社さんとのお付き合いが比較的多かったです。あるいはパッケージとしては外販していないけれども、ソフトウェアをアプリケーションとして持っているところに、「16ビットから32ビットへの移行をお願いします」というかたちでやっていました。

能登原
16ビットから32ビットに変わるときには、アプリケーション自体を大幅に修正しないといけないものだったのですか。

野村
APIそのものが違っていたのですよ。技術的な細かいところは忘れてしまいましたが、サンクレイヤーといって16ビットと32ビットの違いを吸収する層をWindowsの中で用意していて、16ビットだけれども、32ビットのWindows 95の上で無理なく動かすためにレイヤーというクッションがあって、それを徐々に取り払うという作業を少しずつやってもらうようなかたちだったのです。
それと同時に、その当時、マイクロソフト・ファンデーションクラスというクラスライブラリーが、Visual C++に付くようになって、「これでクラスライブラリーを使って書いてもらうとAPIの16ビットと32ビットの違いを将来的には完全に吸収します。できるならばこのクラスライブラリーを使ってください」ということで、APIからクラスライブラリーへの移行をお願いするということもやっていました。

能登原
そういう活動だったのですね。確かに、どういうふうに移行していけばよいかはわからないですからね。

野村
そうですね。

能登原
私は、そういう場合にはメーカーの人たちのほうから問い合わせて、あるいはサービスとしてお金を支払って、そういう技術を受け取っているのかと思っていました。

野村
ある程度深い話になってくると、有料サポートの部隊につなぐっていうこともやっていました。自分も開発者としての経験があるとはいえ、ファンデーションクラスライブラリーに関しては初めての経験で、深い知識はありませんでしたから、ある一定のレベルを超えると、「ここからは有償サポートでお願いします」ということになりました。でも最初の部分に関しては、自分たちが技術者の視点でもって、ある程度情報を提供しながら、何とか二人の中で回せるように、いろいろ工夫はしていましたね。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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