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2008年11月14日

鈴木 君男さん(1)
新日鉱ホールディングス株式会社 企画・管理グループ(IT担当) シニアマネージャー

鈴木 君男さん鈴木 君男(すずき きみお)さん
新日鉱ホールディングス株式会社
企画・管理グループ(IT担当)
シニアマネージャー
1982年筑波大学第3学群情報学類卒。同年、日本鉱業入社。本社及び工場にて販売管理システム、生産管理システム等の開発、保守・運用に従事。1991年米国コーネル大学にてME(Master of Engineering)を修得。1995年よりコンビニエンス・ストア本部にて流通関連システムの企画とプロジェクト管理、2002年よりセントラル・コンピュータ・サービス(株)にて新日鉱グループのシステム開発を担当。2008年より新日鉱ホールディングス(株)企画・管理グループ(IT担当)としてグループのITガバナンスの整備を推進中。

コンピュータを作る側より活用する立場の仕事を志向

鈴木 君男さん

能登原
この対談ではみなさんに、「そもそもなぜコンピュータに関係する仕事をするようになったのか」ということからお聞きしています。鈴木さんは、大学が筑波大学の情報学類ということですが、コンピュータの学科をなぜ選ばれたのかというあたりからお願いします。

鈴木
高校時代に理数系の科目が得意でしたから、大学では理数系の勉強しようと思っていました。理数系にもいろいろありますが、私はデザインをしたり絵を描いたりするのが非常に苦手なので、そういう要素がない分野で、社会の中で役立つことを勉強したいと考えました。1970年代の後半は、「コンピュータ」という言葉が世の中に出始めてきた時代でした。そういう最先端の勉強ができる環境があるということで筑波大学はとても魅力的でした。
大学では情報学を専攻し、ハードウェアとソフトウェアの両方を勉強してきました。卒業研究のテーマは、「赤外線スペクトラムデータのデータベース構造」です。赤外線スペクトラムの実際に測定した結果を照らし合わせるためのデータベースの構造を研究し、検索に最適と思われるデータベースを設計しました。

能登原
その当時はコンピュータパワーも不足していたし、データベースの研究は旬なテーマでしたね。

鈴木
たまたま指導教官が、そういうことをやってきた先生だったのですよ。

能登原
それはリレーショナル・データベースとか、そういう一般的なものではなかったのですね。

鈴木
その当時からリレーショナル・データベースについての理論はありましたけれども、実際のシステムとしては、世の中にはまだ普及していませんでした。大学時代のコンピュータの環境は、メインフレームの世界でした。研究課題の実装としては、自分でインデックスファイルとシーケンシャルファイルを組み合わせたかたちで、検索がうまくできるようなものを手作りしたと思います。30年ぐらい前の話ですからね。

能登原
そういう研究だったのですか。それで、今の会社を選ばれたわけは何だったのでしょうか?

鈴木
コンピュータを専門に勉強しましたから、IBM、日立、富士通、NEC等々コンピュータメーカーに進む同級生もたくさんいましたが、私はコンピュータそのものを研究するとか、ソフトウェアを作り出すということよりも、「コンピュータをどう使って社会に貢献していくのか」ということに非常に興味がありました。
そこでコンピュータを利用する企業の中で仕事をしていきたいと考えて、ユーザ企業である日本鉱業に入社しました。当時の日本鉱業は、日本企業の中でもコンピュータの利用・活用という面で先を行っていると感じられたのと、学生時代はバスケットをやっていたので、バスケットボールで有名ということも入社の一つのきっかけにはなっています。

時間のゆとりを活用して、利用者の声を把握

鈴木 君男さん

鈴木
入社後は、情報システム部に所属し、日本鉱業の主力事業のひとつである金属加工事業を担当するグループに配属され、本社で1年半勤務しました。
私が配属されたときの金属加工のグループは、販売管理システムと棚卸し計算システムの開発が終わって一息ついたところでした。情報システム部の他のグループにも同期が何人かいましたが、私だけ結構ひまな状況だったのですよ。
そこで、「今あるシステムからこんなデータを取りだして欲しい」というユーザ部門のかたから、臨時の依頼をもらって、それに対してアウトプットを提供する仕事をやらせてもらったのです。それが今になって思うと非常に良かったです。依頼者は「こういうデータが欲しい」とは言ってくるのですが、そこでもう一度「それは何の目的に使うのでしょうか?」と詳しく利用の目的を聞き、「だったら、このデータも一緒に出したら、より使えるんじゃないですか」というようなやりとりを、新入社員でありながらもやっていたのです。データをどう使うのか、まさに利用者の生の声を聞くことができました。

能登原
そうですよね。情報システムを作っただけではユーザには何もメリットもなくて、情報システムの中にあるデータをすばやくタイムリーにユーザに提供して、初めて効果が出ますから。

鈴木
実は最初のころ、何度か失敗したのですよ。そのまま要望されたとおりのデータを持って行ったのですが、「ちょっと違うんだよね」と中身を見て言われてしまう。そうするとまたやり直しで、前回にやった仕事が無駄になってしまいます。「ほんとうに欲しいデータは何ですか」ということを最初に確認して次の仕事を行うことが大事だなと感じましたね。

能登原
なるほど。その通りですね。

鈴木
とにかくいろいろな人から依頼が来るので、金属加工事業部の管理室、営業企画の人たちと、たくさんの人と仕事を通じて知り合いになりました。そのことが後々プロジェクトを進める上ですごく役立つということを、あとになって実感しました。
当時5階建てのビルで各階に同期入社の友人もいましたし、プロジェクトに入っていなくて時間に余裕がありますから、「お前、今何の仕事をしてるんだ?」と同期の部署に遊びに行ったり、年次が近い先輩の話を聞いたり、毎晩のように酒を飲みに行ったりということが、今になっても結構役に立っています。

能登原
そうすると公式と非公式に社内中の部署をヒアリングしていたような感じだったのですね。

鈴木
結果としてはそうですね。そんな感じで、1年半本社で仕事をして、昭和58年の7月に神奈川県寒川町にある金属加工の主力工場である倉見工場に転勤になりました。

能登原
倉見工場では、やはり生産管理に関するシステムを担当されていたのですか。

鈴木
倉見工場ではちょうど、仕上出荷のFA化、いわゆる自動化とそれを動かすコンピュータシステムの構築という大プロジェクトがありました。私はそのプロジェクトで、工場の仕上出荷工程の入り口にあたる「スリット指図計画」のシステム担当として、開発プロジェクトに加わりました。当時は工場にもメインフレーム(汎用機)がありまして、その担当もやっていましたので、プロジェクト活動と並行して、メインフレームの更新計画、それからシステムの保守、運用の自動化等も担当していたという感じです。

能登原
仕上出荷のFA化計画は、非常に大きい計画でしたね。設備も入れ替えましたし、情報システムも相当作りました。

鈴木
そうです。まだ入社2年目の若造が、大プロジェクトの中のサブシステムですが、そこの責任者として任されて、相当なプレッシャーでした。プレッシャーで本当に胃が痛くなるということも経験し、また大きなプロジェクトを進めていくことの難しさも感じましたね。
また、意思決定に使うツールとして最適化計算の手法である線形計画法を用いた工場全体のモデルが1982年に作られていました。私はそのメンテナンスを本社で担当していたのですが、倉見工場にそのシステムを持って行って、年度予算や中期計画の検討時にシミュレーションに近い使い方をする際の、モデルの維持管理も行っていました。

能登原
入社後の早い時期にそういう大きいプロジェクトを経験したことは、とても良い経験になっているのでしょうね。

鈴木
そうですね。そのおかげで、工場でその後も生産管理を中心としたシステムの開発、保守、運用をいい形でおこなうことができたと思っています。

アメリカに2年間留学した後、銅箔事業の担当に

鈴木 君男さん

鈴木
社内に国外留学生制度がありましたので、1989年の6月からアメリカのニューヨーク州にあるコーネル大学の大学院で、インダストリアル・エンジニアリングという製造現場のシミュレーション、最適化計算など、製造の現場で利用できる理論を勉強して来ました。

能登原
このときの留学生活はいかがでしたか。

鈴木
もともとそんなに英語が得意ではなかったので、行く前には相当英語を勉強してから行ったんですけど、なかなかね、そう簡単に力がつくわけではないです。全て英語でやる授業を聞いてレポート出して、発言してという中で、相当苦労しました。

能登原
苦労されましたか。

鈴木
ええ。何とか、無事卒業することができました。でも、楽しみもありました。学生ですから夏休みが3ヶ月間あります。一緒に行っている同僚の方々には夏休みも勉強している人もいましたが、私はその3ヶ月間は「いかに勉強しないで過ごすか」ということを目標に、有意義な夏休みを過ごすことができました(笑)。旅行に行ったり、スポーツをしたりしていましたね。

能登原
アメリカ国内を旅していたのですか。

鈴木
アメリカ国内を東から西、南から北というかたちで。ただ、子供も連れて行っていたので、子供の具合を見ながらで、あまりハードな旅はできませんでした。あの当時は2歳だったかな。

能登原
お子さんがまだ小さかったのですね。

鈴木
ええ。

能登原
行かれた場所で印象に残っているところはありますか。

鈴木
国立公園に結構行きましたので、イエローストーンやグランドキャニオンは非常に印象的でしたね。

能登原
なるほど。

鈴木
留学の最後は、半年間、現地の米国企業で銅箔事業のシステムの勉強をしました。
「アメリカの会社におけるシステムはどんなものかな」ということで、企業での実習も経験して帰ってきました。

能登原
その実習は、授業を受けながらされたのですか。

鈴木
いや、2年間の留学期間の中で、大学院での勉強を1年半で終え、残り半年で、企業実習を行いました。

能登原
企業実習をしてみていかがでした? 日本とはだいぶ違いましたか。

鈴木
企業実習といっても、現地の関連会社に頼んでお邪魔しただけなので、きちんとしたプログラムがあるわけではないのです。会社に行って自分で勉強しながら、ハード・ソフトの環境だとか、どんな画面でどんなふうにやっているかを見せてもらいました。画面のデザインはそんなに凝らなくて、シンプルでしたね。

能登原
先方の企業のシステム部の人と一緒に仕事をする機会はありましたか。

鈴木
ええ。会話はよくしましたし、システムの使い方は教わっていました。ただ、多くは自分で、いろいろなレポートを読んだりしていました。また、実習の半年の間に、1か月ぐらいアリゾナにある工場にいき、まぶしい太陽を浴びながら、長期滞在型のホテルにいました。あれは良かったですね。

能登原
なるほど。アメリカに2年間行って来られて、随分考え方にも変化があったと思いますが、戻って来られてどのような業務を担当されたのですか。

鈴木
1991年に戻ってきて、銅箔の営業システムを1年ぐらいかけて構築しました。

能登原
アメリカで銅箔に関係した企業で実習したこともあって、銅箔事業に関係する業務を担当されたのですか。

鈴木
そうですね。当時、会社は銅箔事業の拡大を進めていましたが、まだ東南アジアに銅箔の生産拠点がなく、東南アジアへの輸出計画は、日本とアメリカでバランスさせながら進めることになります。実際にデリバリをするときは、本社(虎ノ門)の営業担当が「アメリカにある銅箔の製品在庫がリアルタイムで見たい」という話が出てきました。

能登原
そういう要望があったのですね。

鈴木
当時まだインターネットは全然普及してない時代で、専用線をアメリカと本社(虎ノ門)で結んで、それでアメリカのシステムにアクセスする形にしました。

能登原
そういう面では、だいぶ早かったですね。まだその時は、日本の工場では生産管理システムはできていなかったのですか。

鈴木
作りつつありました。

能登原
同時に作っていたわけですか。

鈴木
そうです。それまで本社の情報システムには、銅箔事業のシステム担当はいませんでした。でもこれからは銅箔事業をさらに伸ばしていくという時代だということで、情報システム部の中でも担当を作って、私が担当になったというわけです。「なったからには、事業に役立つものを持って行かないといかんかな」(笑)ということで銅箔の営業システムを構築しました。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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