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HOME > プロマネへの道 > 金子 高志さん(3) インフォコム株式会社

2009年6月19日

仲間、上司、組織、そして会社・・・・・・

金子さん、能登原

能登原
そういう境地に至ったのは、先ほどおっしゃった失敗から学ばれたのですね。それは、32,3歳のときですか?

金子
27,8歳の時でした。私自身、大きな転換期でした。当時、組織も大きくなっていましたし、仕事もどんどん来ていました。こんなところでまごまごしている余裕はないなと思いました。また、一緒に入社した同期が全く同じような悩みをもっているわけです。その仲間同士でコミュニティが自然にできていて、たまにその仲間と食事でもすると皆、同じ事を悩んでいて、互いに刺激をし合っているんですね。例えば、こんな本を読んで感銘したから読めよとか、このセミナーは良かったよとか、こんな仕組みを考えたけれども一緒に実践してみないかと。その当時、一人だけではなく一緒に考えたり、価値観を共有できた仲間がいたことは、非常に恵まれた環境であったと思います。たぶん一人だけだと嫌になっていましたね。上司であり、部下であり、同僚であり、非常にいい人間関係を構築できたので、つぶれずにここまでやってこれたと思っています。

能登原
そういう面では鐘紡の子会社であるSI事業本部は、人を伸ばすにはいい環境だったのですね。

金子
そうですね。当時の本部長は、その事業・組織を作ってきた人で、人に対して思い入れの強いものがありました。そして、その本部長は、お父さんというか親父さんという感じでした。

能登原
では、その方の人格が多分に影響しているんですね。

金子
そうですね。

能登原
ある人が言っていましたが、上級の要員になればなるほど徒弟制度でないと育てられないと。中々マニュアル化できないですよね。トップのそのような雰囲気が、組織全体にいい影響として行き渡っているのですね。

金子
いい組織だったと思いますよ。

能登原
やがて800人ぐらいの組織に成長したとき、まだまだ行くぞという感じでしたか?

金子
そうですね。ただ、時代背景的に1990年に入ってくると金融バブルがはじけますよね。それと同時に景気が冷え込んできました。特に金融業界が影響大きかったですね。それに同調するように右肩下がりになり、事業・組織もしぼんでいきました。今その会社は、社名は変わりましたけど残っています。

能登原
本来なら有望な社員として、そこの会社の幹部になっていく道筋が当時あったと思いますが、退社されたのはそういう事情があったのでしょうか?

金子
会社がしぼんでいった過程で、本部長を初め、私の師匠を含めた上の方々が、私が辞める直前に去っていきました。中には、責任をとって辞めた方もいらっしゃいますし、会社の方向性、考え方が違うということで辞めた方もいます。そういった中で私の周りは、変わっていきました。自分は、残っていくのもいいが、信頼している上司もいないし、不安になりました。そして、外に目を向けるのも面白いのではないかと思い、転職活動を始めました。
その中でたまたま、以前請負で仕事をしたことがあるインフォコムの前身である日商岩井インフォコムシステムズの仕事をしたときの印象が非常に良かったことを思い出しました。そのときの仕事は、交換機系のシステム開発でプロジェクト期間が半年だったのですが、それにしては、規模の大きい案件でした。パートナーも含め10人強のチームでした。仕事を戴いたときは、案件を進める上で交換機とのインターフェースを取決めるのに難航したりと、大変なことも多かったですが面白く、また人柄もみなさん良かったです。その記憶が転職活動において、脳裏をよぎったというか思い出しました。打診してみたら、トントン拍子で決まり、日商岩井インフォコムシステムズ(現、インフォコム)に転職をしました。

能登原
事前に転職先の会社がどのような会社なのか、大体わかっていて、転職されたのですね。転職先では、やはりマネジメントの仕事が主でしたか?

新天地でのスタート

金子
前職のときは、マネジメントの立場でやっていましたが、転職先では、いってみないとわからないというのが正直なところありました。事業内容は、親会社である日商岩井とグループ会社からの仕事が大半でした。その中で私は、唯一外販事業を展開している組織に配属されました。入社してみてびっくりしたのは、その組織は、営業しかいなくてSEはいませんでした。初めて、日商岩井とそのグループ会社以外の仕事でプロジェクトをきちっと回せる人がやってきたというのが周りの受け止め方でした。

能登原
一般的にユーザ系のシステム子会社が、外販をやろうとすると上手くはいかないですよね。その中で金子さんは、活躍をされたと思いますが苦労されたこともあったんではないでしょうか

金子
転職した当時、携帯電話事業がこれから成長する分野であり、この分野に積極的に参入しようとしていました。そして、入社した翌年に私も創設メンバーの一員として専門の組織を作りました。

能登原
この頃の中心的な技術と言うとJAVA系のサーバとWEBのアプリケーションでしたか?

金子
まだですね。この頃は、インターネットが普及しはじめて、ウィンドウズも普通に利用されていて、システムアーキテクチャとしては、クラサバ(クライアントサーバー型)が主流であった時代ですね。ただ、私が担当したところは、通信事業者様の交換設備と情報システム側の設備をつなぐ仕組みが主でした。

能登原
通信制御の技術が主ではあるが、DBなどの業務アプリケーションの仕組みも含めた全体のシステムについて、実際の業務を通して、知見を得られたのですね?

金子
そうですね。どうしても必要となるので業務の知識についても強くなりました。ただ、私自身業務アプリケーションに正面から取り組んだ経験はありません。しかし、結果的にアプリケーションチームと一緒にやっているので、全体最適とかを考える上ではアプリケーションの知識が必要となってくるので勉強せざるを得なかったです。

能登原
ずっと、通信制御のようなスペシャリスト系にこだわる人もいますよね。それよりも金子さんは、必要だからアプリケーションなども全部やるという考えなのでしょうか?

金子
スペシャリスト、ゼネラリストという言葉がありますが、結果的には私は、ゼネラリストになっています。先ほどお話をしましたが、トラブルプロジェクトのときの上司に、「お前も、近い将来分岐点にきて、エンジニアとして一本筋を通してやっていくのか、それとも管理職のようにマネジメントをやっていくのか、どっちかに分かれざるを得ないときがくる。そのとき、お前はどっちを選ぶ?その時、絶対に選択しなければならない時がくるから考えておけ。」と言われました。そういうことがあったので意識して、プロジェクトを回してきました。

能登原
通信事業部をつくった頃は、リーダクラスというか、管理職の立場だったのですか?

金子
その組織が出来たときには、管理職になる手前でした。

能登原
では、その頃ゼネラリストになる決断をしたわけですね。

金子
はい。ただ、前職の時に金融系の仕事で40人規模のプロジェクトを担当していた時に、それ以前の、マネジメントもしながら少なからずデバッグしたりものを作ったり手を動かしていたスタイルから、きっちりと役割分担を決めて自分はマネジメントに徹し、プロジェクトマネジメントの考え方を実践しました。結果、上手く出来ました。初めてのプラットフォーム、プロダクト、メンバー、パートナーの中で、品質を確保し納期通りきちっとあげなければという環境、条件でしたが、結果として上手くプロジェクトを遂行することができ、自分の中で「これだ」と思いました。そして、このやり方が自分に向いていると実感したのですね。それ以降、ずっとそのやり方でやってきまして、転職したときは、すでに自分自身のやり方が出来上がっていました。

能登原
最初、リーダを務めたとき失敗されたというお話がありましたが、そのとき勉強したことが生きたのですね。

金子
はい。また、勉強するだけではなく、それを自分の中で体系化して整理して実践する場が出来たのがよかったと思います。そして、どんどんブラッシュアップしていき、やりやすいようにも改善していきました。

能登原
なるほど。そして現在は、規模は大きくなりましたが、96年ぐらいからやってきたテレコム事業を責任者の一人として担当しているわけですか。

無我夢中の組織作り

金子 高志さん

金子
はい。最初は、組織は何もなかったですから無我夢中でしたが、上司と相談しながら人を集め組織を作っていきました。自分以外は全部パートナーさんでしたが、そこから一人ずつ増やし、仕事もその分増やしながらバランスをとっていきました。メンバーの中には、自分を頼って前職から転職してきた元部下たちも何人かいました。事業も大きくなっていくと自然と人は集まってきて、途中から人がどんどんと増えていきました。

能登原
そうなると金子さんは、もはや師匠といわれる立場になったのですね。

金子
自分は、自覚がありませんがそういう風になってきましたね。

能登原
そうなると下の人たちを指導する立場になると思いますが、指導者として、日ごろから心がけていることは、ありますでしょうか。

金子
人の質が全て仕事の質に直接つながってしまうので、人をどうやって教育するかがポイントになってくると思います。私は、組織を束ねる立場になったので、必然的に教育に対して真剣に取り組みだしましたが、それ以前の私は、現場にいたので現場での問題点を常に感じていました。現場のリーダは、上手く行っているうちは調子いいのですが、当然、山谷がありますよね。そうすると疲れてきます。
御社に教育についてご相談したときは、現場のリーダたちが疲弊し、やってもやっても終わらないと そんな感じがあったので、そこをなんとかしてあげたいと思いました。そして、彼らの苦しみをとってあげて、さらに言えば彼らのもっているポテンシャルがフルに発揮されて、いい仕事ができれば事業もよくなって、上のほうからも褒められて、給料もよくなっていくといういいサイクルが出来るわけですね。そして、本人もやる気が出て、よりステップアップする気になるし、どんどんよくなっていきますね。そういう風になったらいいなという思いがありました。
闇雲にがんばれ、がんばれというようにプレッシャーを与えるのが、典型的な上司だと思うのですが、現場にしてみれば何をがんばれという話なのです。おそらく日々の課題を相談して片付けるのは、出来ますが、それだと一過性ですよね。そうなると常に新しい問題が起こります。気が付くと、そういうことばっかりやっているとその人自身伸びません。上司も大変だし。そのうち、本人は、何をやっているのだろうという気にもなり、自立したプロとして一人前になりません。
一方で、自分がまさに色んなことを悩んだ頃を振り返ると、誰もそのようなことを教えてくれなくて独学でしたが、それが上手く出来たのは、自分であって彼ら彼女らが出来る保証は、どこにもないのです。自分ができたから彼ら、彼女らが出来るとは限らないので、彼ら彼女らにとって悩みを少しでも助けられるようなことが出来たらいいなというのを常日頃思っているだけなのです。

能登原
具体的な方策とかありますでしょうか。

(次回に続く)

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