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2006年7月21日

【林衛の業界探求シリーズ】IT技術者の問題意識の有無がプロジェクト、さらには事業の成功を左右する

失敗プロジェクトの背景には、マネジメントの問題にとどまらないより根深い構造が潜んでいる。しかもそれはIT技術者を「仕事の楽しさ」や「幸せ」から限りなく遠ざけているのではないだろうか。アイ・ティ・イノベーションの林衛は現場でのコンサル経験を数多く積み重ねるうちにそう考え始めた。今回の対談相手であるKDDIの繁野氏はユーザ企業のシステム部門のあるべき姿、そしてIT技術者の持つべき視点やキャリアパスについて、実践に基づいた独自の発言を行ってきている。かねてからその発言に刺激を受けていた林衛は繁野氏のもとを訪ね、現在IT技術者が陥っている状況を、何を手がかりに変えていけばよいかについて語り合った。

繁野高仁さん

繁野高仁氏プロフィール
1953年生まれ。1977年 北海道大学工学部電気工学科卒業し、日本NCR入社。1985年 DDI(現KDDI)に入社。DDIとDDIポケット(現ウイルコム)の創業に参画し、情報システム部門の責任者として社内システム全般を統括。2000年からは、DDIとKDD、IDOの合併に伴うシステム構造改革を推進し、昨年度の日経コンピュータ誌「情報システム大賞」グランプリを受賞。情報処理学会、経営情報学会会員。

対談における最初の確認:
「今IT技術者は大きな課題に直面している」

繁野高仁さん


繁野さんはIT関連の講演をされたり、インタビューを受けたりなさることが多いと思います。そういった記事を拝見して、非常に私と考え方が似ているなと思って、お会いできるのを楽しみにしていたんです。

繁野
私は、岐阜のソフトピアで開催されているCIOスクールにKDDIのマネジャを多く送っているのですが、林さんもCIOスクールの講師陣と一緒にやっているということは、たぶん私と考え方の共通点も多いのだと思います。


波長が合うのかも知れないですね。私は今まで戦略やマネジメントを主に考えてきたのですけど、最近になって、たとえば「ITの人材はもっと誇り高くないといけない」等、もっと精神的な要素に考えが向くようになりました。

それにITの業界を構成している技術者はコンサバティブですよね。一つの技術を習得するまでは一生懸命にやるんですけど、関心を持っている領域があまりに狭い。私は業務系のシステム開発が失敗する一つの要因に「技術者が会社に対して無関心」ということがあると思います。関心のないところでは、問題意識が出てこない。つまり問題の本質が見えないということです。世の中は非常に複雑化、多様化してきましたから、単に技術を覚えるだけでは、なかなか問題解決につながりません。ですから会社全体に関する意思決定やマネジメントについても技術者が勉強しないとプロジェクトも成功しない。プロジェクトを成功させないと技術者の地位の向上もない。そのへんが、これから非常に重要だと考えています。

繁野
おっしゃる通りですね。


そこで今回の対談では、通信業界の情報システム部門が直面している課題、それから人材育成、ITにかかわる人々の当事者意識、誇りの向上はどのようにすれば可能なのかということについて、ざっくばらんにお話しいただければと思います。

既存の知識の詰め込みは大嫌い
時代の風に吹かれた学生時代

繁野高仁さん


本題に入る前に、少し繁野さんの「人となり」についてお話を聞かせていただきたいと思います。繁野さんは北海道大学卒とプロフィールにあります。でもご出身は関東ですよね。

繁野
そうです。北海道大学で学生時代を過ごしました。まあ、あそこは大陸的でおおらかですよね。道内の人が半分くらいですから。私は横浜に住んでいたので、近所のおばさんにも「本州から離れて、わざわざなぜ行くの?」(笑)とか言われました。


なぜそんな遠くの大学へ?

繁野
北大って当時、受験科目が非常に多かったんですよ。僕はすぐに興味が移ってしまうタチで、「これだけ」と決めて勉強するのが苦手で、科目が多いほうが受けやすかったんですね。それと、親元から遠く離れたかったのと、地図で上のほうじゃないですか。なんとなく下よりも上のほうがよかった(笑)。
大学は楽しかったです。恵迪寮に最初の一年間いたんです。一部屋に5人くらい、全体で300人くらいいましたかね。もう建替えでなくなりましたが、これがまたバンカラな寮でね。部屋でいろいろなサークルがあったり、活動家も部屋ごとに固まっているわけですよ。新入生は適当にどこかにランダムに入れられて…


「ここはいやだから替えてくれ」と言う異議申し立ては認められないんですね。

繁野
認められないですね。


そういうの、いいですね。そこで「理不尽さ」に遭遇する。

繁野
そう、理不尽なんですよ。革マルの部屋なんかに当たったやつは、2~3ヶ月したら目の色が変わっていましたよね。完全に洗脳されて。田舎から出てくると本当に純粋だから、簡単に染まっていくわけですよ。僕はたまたま革マルじゃなくて、民青の部屋だったんです(笑)。


じゃあ、わりとゆるめですね。

繁野
僕は都会人ですれているので染まらないし、「理論を振り回したって現実は違うじゃないか」という感じで。当時一緒の部屋だったのが東大教授の小森陽一君や農工大農学部の教授をやっている渋澤栄君です。井上ひさしの奥さんで料理研究家の米原ユリさんは僕と同い年で、民青の集会ではマドンナでしたね。井上ひさしさんと結婚したときにはびっくりしました。そういう時代でしたから、随分デモしたり、いろいろなことをやっていましたけどね。


私も大学の時に中核派のきれいな女性に誘われましてね。でも都会人だったので疑い深いし、集会に行くよりアルバイトしたほうが有意義な学生生活だろうと。

繁野
そのへんの感覚は似ていますね。


そういう学生時代だったら、あまり勉強はされなかった? 私は全くしませんでしたが。

繁野
そうですね。全然してないです。何のためにやるかよく分からないものが苦手で。工学部の電気なんですけど、適当にやって適当に卒業しました。そもそも勉強とか大学とかあまり好きじゃないんです。こつこつ何か決められたことを一生懸命に学ぶというのは、どうもダメなんです。頭が働かない。空想しているのは楽しいんですけど。みんなが知っている知識を一生懸命詰め込むなんて、とてもやれません。眠くなってしまいます。


私もいつも試験の前は、独学でゼロから学習するタイプでした。先生に何かを教わろうというつもりがない。そんなに高得点はとれません。ただ自力で理解しているから応用が効く。

繁野
それは大事なことだと思いますね。知識を吸収するのが大好きな人はたくさんいます。でも、それが実務に役立つかというとあまり関係ない。高じると評論家みたいになって、批判はするがろくに成果が出ない。知識も必要ではあるでしょうけれど、知識だけではどうしようもないですね。

個人意識の強い外資系で
システム屋として一本立ち

繁野高仁さん


それで、繁野さんはどうしてこのITの世界に足を踏み入れられることに。

繁野
それも本当にたまたまなんですよね。当時、オイルショックのあとの就職難の時代でした。北大なので一応教授推薦を取れれば入れたんですけど、僕は成績が悪かったから家電メーカーとか人気があるところはダメで。就職担当の教授のところに「ここの会社の人事担当が来た」ってリストが書き出してあるんです。たまたま僕が就職したNCRは一番先に書いてあった。なんとなく印象に残っていて、「ああ、ここを受けてみようか」と気軽に受けに行ったら通っちゃった。ほとんど試験らしい試験はなくて、面接をパッパッと二回くらいやって決まりました。結果的にはよかったですけどね。当時、NCRは170人くらい採用したんですよ。ほとんどが国公立。そういうことは珍しいんです。


私は繁野さんより少し後の時代ですけど、あの時代にはNCRとかユニシスとかに優秀な人が行っていますね。今IT業界でたくさん活躍されているんじゃないですか。

繁野
そうですね。NCRはあまり外資系らしくない外資なんですが、やはり外資系的な個人主義というか、要するに組織にべったりしない、わりと好き勝手にやれるというような気風がありました。好き勝手やってスピンアウトする人も多かったですし、普通の日本企業よりも、もっと個人としての意識が強いという感覚がありましたね。


入社してどういうプロジェクトに入られたんですか?

繁野
僕は52年(1977年)入社で、最初にやったのが百貨店のPOSシステムの開発でした。ちょうど高島屋で最初の全店POSオンラインをやるというプロジェクトが始まった時だったんです。Iさんという技術者がリーダになって、その下に10人くらい新入社員が配属されました。


Iさんは私も知り合いなんです。

繁野
面白い人ですよ。最初に会った時にはめちゃくちゃ派手な格好をしていました。日頃からけっこう派手なんですが。あの時はそれにも増して派手だったみたいですね。要するに、自分が新しいプロジェクトを任されて、優秀な人間を集めなければいけない。そのためには自分をアピールしなきゃ、と。目立つ格好からまず入って、印象に残らなきゃいけないという感じだったみたいです。

だいたいIさんは朝遅くて、定時に来たことないし。僕は時間を守るわりと昔気質の真面目なタイプなんですよ。一回だけ寝坊して遅れた時に「すみません、遅刻しました、申し訳ないです」って書類を書いて、それを受け取ったIさんは「ああ、いいよ」とか言っていましたが、よく考えたら、定時に来たことがない人間になんで俺が謝らなきゃいけないんだと(笑)。


そういうパターンはよくありますね。

繁野
さんざん修羅場をくぐらせてもらいました。受注の納期とか内容がむちゃくちゃで、ともかく厳しい開発でしたね。本番を万全なかたちで迎えたことなんて一回もないです。本番からテストが始まるような。当時のハードウエアなんかも、今考えると非常に劣悪で、ソフトウエアも機能不足で、結局、現場でのサポートの負担が重たいんですよね。


そうですね。現場で全部解決していく。

繁野
あらゆるトラブルに見舞われて、そのたびに必死になっていろいろ工夫するんですけど、それがいい訓練になったというか。POSは日中、各店舗のレジからデータが上がって来てやりとりするわけですよね。それがほとんど動かないんですよ(笑)。そんなものはすぐに直せないから、日中は見張りだけ一人置いておいて、夜にみんな出てきて朝までに復旧して帰って来る。


そうすると、定時って関係なくなりますよね。

繁野
関係ないですよ。ひどい時は3ヶ月全く休みなしとか、三日三晩全く寝なかったこともあります。要するに、バグがつぶれるまで帰れない。もう結婚していましたけども、徹夜しても帰れないので、家内に弁当を持って来てもらって。最初の3年くらいは高島屋のをやって、次に緑屋と、1980年代の前半くらいはいろいろな百貨店へ半分パッケージ化した我々の製品をカスタマイズしながら展開していました。だいたい大手の7割くらいはそれが入っているんですよ。
それから札幌にまた3年間転勤して、丸井今井のシステムをやったんです。今度は、POSではなく基幹系のシステムを全部リプレースということで、いろいろなアプリケーションはそこで経験しました。


要するに流通サービス業ですよね。そこで相当苦労されたということでしょうか。

繁野
いや、まあ北海道の人はのんびりしていますから、こっちは早く納めて早く帰りたいんだけど、「別にそんな急ぐことはないじゃないか」とかね。だからズルズル3年もいたんです。北海道にいるうちに2人の子どもが生まれたんですけど。「このままいたら東京に二度と復帰出来ないんじゃないか」と思って、「帰してくれ!」って強引に帰って来ました。ただ、向こうではほとんど自分が仕切ったような感じで、お客さんと相対でいろいろやっていましたからね。情報システムのこともよく分かったし、いい経験をしました。

先に辞めた同期にスカウトされ
創業期のDDIに転職

繁野高仁さん


それで85年には転職なさるんですね。

繁野
帰って来て、たまたま誘われたのでDDIの創業の時に入ったんです。それもたまたまです。僕は当時、西武流通グループの担当で、大きなリリースが終わって暇だったんですよ。当時まだ、さっき言ったIさんが上司で、Iさんもさすがにちょっとかわいそうだと思ったのか、少し仕事を抑えて休みをくれたんですね。

NCRに同期で入って野球を一緒にやって親しかったIWという人が、僕よりだいぶ前に辞めて転々としていたんですが、たまたまDDIの創業の時に入ったんです。事業計画を立てると、「結局、どうやって金を取るんだ?」「よく考えたらシステムを作らなきゃいけないじゃないか!」という話になって、システム屋が必要であるということになったらしい。「IWならNCRでコンピュータやっていたから、誰か知っているだろう」というので、システム屋のスカウトを仰せつかった。それで僕のところへ電話がかかってきたんです。実はIWの大学の先輩に人材スカウト会社の社長がいて、その人に頼まれてNCRから人材を引き抜いていたんですよ。彼から見て優秀なやつをそちらにみんな紹介してしまったので、いざ自分のところに入れようと思った時にもういない(笑)。しようがないな、というので僕のところに電話したということらしい。


じゃあ、その方と前後してDDIのほぼ創業期に入られた。

繁野
創業が84年の6月1日で、僕が入社したのが85年の3月18日です。僕が入った直後の4月1日に電気通信事業法が改正になって、それまでは第二電電企画株式会社と言っていたのが、第二電電株式会社に変わったんです。まさに創業の時で、社員もまだ40名ちょっとだったんです。その中に今のイー・アクセスをやっている千本さんとか種野さんとかがいらっしゃいました。僕も千本さんや種野さんに面接されたんですよ。僕はそうは思わなかったんですが、千本さんの面接は厳しくて、かなり受験者を泣かせたらしいです。あまり厳しい質問をするんで、合格者に辞退されたとか。

僕はIWに「まあ、とりあえず、来てよ」と言われて、行ったら面接されて、「はい、決まりました」ということでズルズルと入ってしまいました。その時仕事が忙しかったら行かなかったんでしょうけど、たまたま仕事が一段落していましたからね。NCRはどんどん社員が転職する会社で、僕は同期で最後まで残ると思われていたらしいんですけど、結果的には結構早い段階で出てしまいました。


NCRさんの場合は、本当に外に出て活躍される方が多いですよね。

繁野
NCR自体に同期はもう3分の1くらいしか残ってないと思います。別に意図したわけじゃないんですけども、縁があって転職して。「まあ辞めてよかったんじゃないの」と、元上司のIさんともよく話しますけど。
「辞めます」って辞表を出したら、Iさんはとりあえず上司だから「お前、辞めるな」とかいうんですが、全然、迫力がないんですよね。


もう、しようがないと思っていたんじゃないですか。

繁野
そうそう。だって1年後にIさんも辞めているから。だからもし僕がその時先にやめなければ、今Iさんと一緒の会社で仕事しているかも知れないですよね。何が縁か分からないです。


そうですか。繁野さんはわりと「縁」を中心に動いていらしたんですね。

繁野
いやもう、完全に縁ですよ。


でも経歴を見させて頂くと、どこかで重要な意志決定をされているのではないかと…

繁野
それは全然ないです。僕はどうも頼まれると断れないみたいなんですよ。何かやってくれと頼まれると、断る理由がなければ基本的には「分かりました」ってやるほうなんです。「うちに来てくれ」と言われると、なんとなく行かなきゃ悪いような気になるし。本当に、行き当たりばったりなんです。

(次回に続く)

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