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2006年11月 2日

【林衛の業界探求シリーズ】第一回ビジネスに寄与するシステム構築のために、「人」の問題をどう捉えるか

ITシステムは経営に寄与するものでなければならない。しかし複数の組織を横断する大規模プロジェクトになればなるほど、その開発にも運用にも、立場の異なるユーザーの思惑が絡んでゆく。それらの統制を取っていく高度のマネジメント&コミュニケーション能力が開発側にもユーザー側にも要求される。今回の業界探求シリーズでは、かねてからプロジェクトにおける人間系の問題にフォーカスを当てて活動してきた林衛と、やはりシステムと人とのマッチングに深い関心を持たれている矢澤氏との対談が実現。両者ともドラッカーの愛読者であり、考え方のみならず趣味にも意外な共通点のあることがわかった。

矢澤篤志さん

矢澤篤志氏プロフィール
最終学歴 中央大学 商学部
1981(昭和56)年 4月 カシオ計算機入社
2003(平成15)年 4月 業務開発部長
2006(平成18)年 6月 執行役員 業務開発部長

対談ゲストに矢澤氏をお招きした理由:

矢澤篤志さん


この対談は、IT業界の問題や課題を一緒に解決していくことが狙いです。著名な方、問題意識の高い方に対談に出ていただいて、みんな情報を共有しようということです。 日経BP社の谷島さんと私は、以前に「プロジェクトの勘所」という特集を一緒にやっていて、その後もお互いに刺激しあっているのですが、その谷島さんに「この業界の中でITプロジェクトに関して意見・こだわりを持たれている方はいませんか」とお願いして、矢澤さんをご紹介いただきました。矢澤さんとお会いするのは初めてですが、谷島さんがそう仰っているんだから、相当いろいろなお考えをお持ちだろうと楽しみにしています。

矢澤
いえいえ、そんなことないですよ。


ネット上の矢澤さんに関する記事を拝見して、好きな本や趣味も事前にレビューさせていただきました。非常に親近感を感じております。私もドラッカーの「365の金言」が出たときにすぐに買って、辞書代わりというか睡眠薬代わりに使っているのです(笑)。

矢澤
あの本は一気には読めないですけどね。。


辞書を読むようなものですよ。

矢澤
そうそう(笑)。


ストーリー性もないですから。ITに関してあれに相当するようなものをつくれないかと思って、私もいろいろ試行錯誤中です。そのようなわけですので、気軽にお話いただければと思います。

矢澤
なるほど。実は今回の対談にお招きいただいたのは、KDDIの繁野さんのご紹介なのかなと思っていました。プロマネのホームページを開いたら最初に繁野さんが出てきたから「これは断れないな」と思って(笑)。


そうだったのですか(笑)。繁野さんにも感謝しなければ。

問題提起:IT業界における人間系の弱さ

矢澤篤志さん


初対面ですから、まず私の自己紹介から。どこまでさかのぼって話をすればいいでしょうか…実は私、大学を出るまでは名古屋から出たことがなくて、初めて大学時代に海外に行って凄いショックを受けました。そのときグローバルな活動がしたいなという気持ちが頭の中に芽生えた。高校時代まではそれなりに勉強はできたつもりなんですけど、大学の物理は、分からなかったです。私の場合は完全に分からないと分かったことにならないんですよ。実際のところは物理学界にすら完全に分かっている人間なんていないでしょうが、どうせなら未開拓の分野で仕事をしようという気持ちになったんです。そこでITの世界に入りました。

矢澤
何年くらいですか。


今から26、7年前ですね。私は最初にトッパン・ムーアという印刷会社に入って、その会社の顧客向けソフトウエア事業の創業メンバーとしてスタートしました。その会社は分離独立し、92、3年には設立して13年くらいで250億くらいの売り上げになりました。人員も650人までふくらみましたが、その後、バブルが崩壊し経営が苦しくなりました。。トッパングループなのでつぶれるということはなかったのですが、事業を解体したり縮小したりするというとこになって、最後まで頑張っていたのですが、結局は自分の領域の仕事を継続するためにジェームス・マーチン社に移りました。私が何故ジェームス・マーチンに行ったかというと、トッパン時代の85、6年にソフトウエア開発のメソドロジーを勉強する機会があったからです。会社がお金を出してくれて、英国に合計で1年くらい、その後、アメリカやヨーロッパでも、グローバルな新しい技術を導入するということで勉強させてもらいました。そのノウハウを基にトッパン・ムーア・システムズで80年代後半からコンサルティングを始めていたのですが、海外事 業や多角化のやりすぎで手じまいできなくなって、バブル崩壊の時期に行き詰まったということですね。

矢澤
なるほど、そういう経緯でしたか。


トッパン・ムーア・システムズでは、仲間が非常に優秀だったし、私自身は最先端のメソドロジーを学べたので、そのまま独立するつもりで準備していたんですけど、94年にジェームス・マーチンという複雑系のシステム開発やデータベース設計の世界的な権威だった人がつくった会社が日本で事業を始めるということで呼ばれまして、じゃあ少し手伝うかと(笑)。少しのつもりが4年半手伝いました。ジェームス・マーチン・ジャパンは味の素との合弁会社だったのですが、合弁を解消する時期がきた。そこで98年に私も当初の路線に戻して、「ITの変革」という名前のアイ・ティ・イノベーションという会社をつくりました。
ITの仕事に就いて一つ気が付いたのは、一生懸命勉強するので理論や機械にはみんな強いんだけど、「人間系」の部分が弱いのでなかなか上手くいかないということです。理論面や、繋がる・繋がらない、動く・動かないというテクニカルな面は解決されているのに、多少複雑なシステムになるとなぜ上手くいかないのだろうかと、ずっと疑問に思っていました。それからIT組織の人というのは、どういうわけか非常にコンサバティブなんですね。自分を変えたくない人が非常に多いということに気が付きました。そんなことは他の業界ではちょっと考えられない、製造業なんかでも凄く変革の努力をしていますしね、日本にはそういう風土があるはずなのに、なぜITの人たちはコンサバなんだろうと。まあ、そこに市場があるだろうということで、アイ・ティ・イノベーションという会社をつくったんです。それ以降、いろんな会社さんに、特にメーカーさんのIT部門の方と一緒に変革の仕事をやっています。一人だと勇気がなかなか出ないので、一緒にいろいろな変革を実現しましょうという仕事をやっています。
矢澤さんは、特に変革にかかわる「人」に対して興味がおありで人をなんとかしなければ上手くいかないんだと主張されているということをお聞きしたものですから、今日はお邪魔したということです。

矢澤
分かりました。

商社志望からメーカーの海外営業へ

矢澤篤志さん


矢澤さんご自身の歴史というのは、どういうものなのでしょうか。

矢澤
私もどこまでさかのぼればいいのかなというのがあるんですけど、もともとずっと文系できていまして、大学も文系です。卒業して何を目指そうかという時に、当時は商社が人気だったんですね。


当時の文系進路の花形ですよね。

矢澤
もともと商業貿易という学部で、海外の仕事をしたいというふうに漠然と思っていたんですけれども、ちょうど商社が人気の時期でもありまして、根がミーハーなものですから(笑)商社に入りたいと思って就職活動をしました。でも人気の業界ですから、とんでもなく競争が激しいわけです。当時の9大商社とかずっと回ってきたんですけれども、とても入れる状況じゃない。それで、だんだんと専門商社ですとかあるいはメーカー系の海外営業の部門になんとか行けないかということで、メーカー系を当たっていました。たまたまカシオ計算機も当時、特に海外の営業系を強化したいところがあったらしくて、面接の時に「海外営業を希望なんですけれども」と言ったら「うちなら海外の仕事が出来るよ」と言われまして入社を決めました。


メーカーにそう言って入ってくる人は珍しいんじゃないですか。

矢澤
そうですね。ただ、入社して研修しているときに人事部からは、「いや、それはあくまでも口約束であってね、どこの部門に配属されるか分からない」(笑)と言われてしまいました。特に僕の同期の時というのは、日本国内の配属が多かったんです。で、研修の最後の日に、北は旭川出張所からだんだん発表されてきまして、どこで自分の名前が言われるかドキドキしていた覚えがあります。一通り国内営業の発表があった時に名前がなかったので、これは本社に行けるんだなと。


胸をなでおろしたわけですね。

矢澤
本社の中でも海外営業に希望どおりに行けまして、配属されたのが時計関係の輸出の部門でした。当時は日本からの輸出が非常に多かったので、商社で言う船積みの部門をまず経験させてから営業に回すということで、「じゃあ3、4年、管理部門で経験して」ということでやっていたんです。

ユーザー側代表としてITプロジェクトに

矢澤篤志さん


それがなぜシステム部門に?

矢澤
もともと海外営業はその時期に急に伸びた部門でしたので、業務系のシステムは国内向けのものを間借りしていました。でもこれだけ事業が拡大すると、海外の輸出あるいは販売管理に関する全般のシステムを構築しないといけないだろういうことでプロジェクトが始まったのが、私が入社して3年くらいだったんですよ。アドミで3、4年経つと営業に異動するのが通例ですから3年目くらいでベテランというか、よく知っている立場になっていたので、ユーザー側の代表みたいな立場でプロジェクトに出されました。そのプロジェクトは実質的には2、3年続いたんですけれども、よくあるじゃないですか、情報システムの部門長が、ユーザーから人質のように「誰か一人選任を出せ」というのが(笑)。それに当たってしまいまして。


情報システム部に召し上げられたんですね。

矢澤
ええ、それが初めてのコンピュータとの出会いだったのです。その時には、うちの情報システム部門もまだほとんど体制が整っていなくて、ほとんど丸投げだったんですね。その相手が、ご存じだと思いますが、当時のコスモ・エイティです。それがまた今から考えれば丸投げ体質の悪いところで、私がユーザーなんですけれども、間に立つ情報システム部員なんていないわけですよ。いきなり向こうのSEと対峙して、業務設計からIT側の設計まで全部やらされたような覚えがあります。それこそ画面の設計から入出力の設計から、そんなところまで。「私はこんなことをするためにカシオに入ったんじゃない!」(笑)と思いながらやっていた時代があったのです。
それで2、3年で苦労して、一応、システムを立ち上げて、そこからユーザー部門に帰ったのです。そこから2年、システムの安定可動というのもありましたし、今度はシステムが立ち上がってくるとデータの活用ですとかあるいは販売管理の本当の仕組みを作らなければいけないというので、「いつ営業に行けるんだ?」と思いながら、そういう仕事をやっていました。で、ちょうど入社8年目くらいに、いよいよ「じゃあお前、営業に行かせてやる」という話になりました。「希望どおり海外駐在に行かせてやる」という、内示じゃないんですけど、内内示くらいを受けていたのです。ところが、その営業本部のトップが今度は管理部門に移ったんですよ。そしたら私が引っ張られていってしまいまして…


また人質。いや、今度は人質じゃなくて、その仲間にされてしまった(笑)。

物流からサプライチェーン企画立ち上げへ

矢澤篤志さん

矢澤
その部門というのは、物流部門で、それから当時、戦略ロジスティックス、いわゆるSISが流行っていた時代で、そういう物流と販売物流系の情報システムがくっついたような部門にいきまして、そこで今度は国内外の物流の仕事と、そういう物流のシステムの企画などを、7、8年やりました。


もう、そろそろ営業はあきらめますね(笑)。

矢澤
でもまだ、コンピュータの専任になるとは思っていなかったんですよ(笑)。
ユーザー側でプロジェクトを引っ張っていく立場だったのですが、さらに偶然、今度は物流部門とシステム部門がくっついて、システム部門が全社統合される動きがあったんです。96年か97年くらいで全社統合されました。そのなかで物流部門の課題は、生産から販売までの一気通貫なシステムを構築する事でした。その時はシステムを考えるユーザー側にいたわけですが、私は前から営業の前線からロジスティックスがだんだん広がりを持ってきて、今で言うサプライチェーンを作っていかなきゃいけないと強く思っていました。


販売と物流をやって、だいぶ見えてきましたか。

矢澤
ええ、そうですね。当時の事業部門や生産部門を巻き込んで、サプライチェーンの企画を始めた頃だったので、そのサプライチェーンの具体的な構想を作っていこうということで大がかりにプロジェクトを起こして、構想をトップに上げるところまでやっていたんです。

成り行きでシステム側へ完全移行

矢澤篤志さん

矢澤
一方で、同じ本部だった情報システム部は、そこから3年くらいほとんどのリソースを使ってこの2000年に対応しなきゃいけない。結局それだけリソースを使っても会社として産み出す価値はほとんどないわけです。それならば、今までほとんど手作りだったシステムをERPに換え、インフラを抜本的に換えていこうという決定をしました。ところがそのERPのプロジェクトがなかなか進まないし、当然ながら何らかの事業改革と一緒にやっていかないとユーザーの了解が得られるものじゃないですよね。そこで私にやっていたサプライチェーンの動きとそのERPの動きが合体して、今度はシステム側に引きずり込まれていって…。


矢澤さんはもう、全部できるわけですから。

矢澤
そこで完全にシステム屋さんに移っていったのですね。2000年にかけては国内外でグループ会社も含めて、当時「ビッグバン」って流行っていましたけれども、JDEというパッケージを選んで導入することになったのです。


JDEは私以前いた会社が扱っていました。

矢澤
最初に入れたのが、海外、確かUKの販売会社だったのですけど、そこを手伝っていただいたのがトッパンさんだったんですね。ですからある程度、自社導入の経験があるということと、当時、SAPかJDEかBAANかという選択肢の中で、SAPが非常にブラックボックスになっていてJDEのほうが…


良心的ですよ。

矢澤
ええ、JDEを作っている言語はRPGですから、もともとAS400やRPGをやっていたうちの体質にも合うだろうということでJDEを選んで、ビッグバンで導入といういきさつになったんです。ところがなかなか情報システム屋だけでは入っていかない。そのERPの先頭に立って、今度はユーザーに対して導入する立場になっていきまして、結果的に2年くらいでグローバル導入を果たしました。その時期は一番苦労したんですけれども、それから名実共に完全にシステム屋になったわけです。その後、情報システムの部門長になったのが2001年です。
まあ、そんなことでシステムを始めてから8、9年というところなんですけれども、システムに関してはユーザー部門の経験のほうが長かったということですね。それが私のキャリアになります。

(次回に続く)

構成;萩谷美也子

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