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2007年2月23日

【ドラッカーに学ぶ組織運営と人財のイノベーション】第三回 よい組織の条件は、よい人生の条件と同じである

上田惇生さん

上田惇生氏
ドラッカー学会代表理事、ものつくり大学名誉教授、立命館大学客員教授
上田惇生先生のホームページ
ドラッカー学会のホームページ

よい組織の条件は、よい人生の条件と同じである


では、もう一つ質問です。先ほどは、仕事ができる人の条件についてお聞きしましたが、ドラッカーは、「よい組織」とはどういう組織だと言っているのでしょうか。この場で性急に答えを求める必要はないのですが、いろいろな視点で、私たちの目指すべきよい組織について議論できたらと思うのですが。

上田
よい組織とは、そのメンバーが心の片隅で「われわれは何をもって憶えられたいか」、「何をもって知られたいか」ということを考えている組織です。これは元々、ドラッカーが私たち一人ひとり言っていることです。1年に1回でいいから、自分は何をもって憶えられたいかということを考える。私たちは日本人ですから、大晦日あるいは元旦に考えるのもよいと思います。それを考えていると、毎日の一つ一つの行動が少しずつ変わってくるのです。それが積み重なって、5年後、10年後には人生が変わります。

上田惇生さん

組織の場合もそうなのです。「何をもってわが社は憶えられたいか」を考えていると、組織が素晴らしいものになる。実は、私はずっとシンプルにそう考えていました。
ところが最近、ドラッカーの言っていることは、もっとすごいということがわかったのです。いま「ドラッカー・エターナル・コレクション」、つまり永久保存版の出版が始まったのですが、その一環として、今朝私は『イノベーションと企業家精神』の原稿を読んでいました。するとその中で、ドラッカーは「何をもって憶えられたいかを考えないと、座標軸がなくなってしまって、ふらふらとし始めてろくなことにならない」と、かなりきつい表現で書いているのを見つけました。
私は、「何をもって憶えられたいか」を考えると、人生や組織が素晴らしいものになるのであって、考えなくても特に組織や人間が悪くはならないだろうと思っていたのですが、そうではないのですね。ドラッカーは、「それを考えないと、行き所がなくなってしまうよ」とはっきり言っています。この林さんとの対談を控えた今朝、その表現に、たまたま出会ったというのも面白い偶然ですね。「わが社は何をもって憶えられたいか」を考えていない経営者は、それこそ道を誤って東京拘置所に入るようなことになってしまうわけですね。
これは仕事ができるとかできないとかいうこととは別の問題です。われわれは人間ですから、間違いを起こすこともありますし、法律を犯しても儲けたいという欲望に駆られることもあります。でも「何をもって憶えられたいか」ということを心に持つだけで、志がちょっと高くなる。ほんの少し、ほんの数センチ目線が高くなる。でも、それを積み重ねていくと、人も組織もがらりと変わるというのが、ドラッカーの教えです。


その「何をもって憶えられたいか」を考えるというのは、非常によいことですね。ネガティブになるのではなくて、世の中のプラスになることで人の記憶に残ることを願う、そしてそれを積み重ねていく。そうすると当然、会社の軸足というものがしっかりしてきます。そこが非常に重要だということですね。人も同じです。ゴルフでも軸がぶれていると、当たらなくなります(笑)。人も組織も、軸がぶれていたらまずいということでしょう。

上田
そのとおりです。

ヨーロッパの危機との直面、そして日本との出会い

林


組織の話をしましたが、未来の方に目を向けたとき、端的に言うと、今後何が課題になってくるのでしょうか。例えば、いま少子化が問題になっていますね。また会社に対するわれわれの見方も、社会が会社組織をどう見ているかも、ずいぶん変わってきているような気もしますし、人の生き方そのものも変わってきました。
私が最近感じるのは、過去20年ぐらいの間、ずっと「技術、技術、技術!」で来ていたのが、ここ数年、もう一度人間の意識とか、目標とか、リーダーシップとか、ヒューマン・ファクターが非常に見直されている気がするのです。その代表格は『国家の品格』がミリオンセラーになったことでしょうか。首相も「美しい日本」と言っているくらいですし。実は私は、首相より前に、「美しいシステム」を主張しているのですが(笑)。

上田
それにお答えする前に、ドラッカーと日本の話をしましょう。
私が思うに、やはり、相思相愛というものはあるのでしょうね。ドラッカーは、おそらく人口の割合で言うと、アメリカより日本での読者の割合が多いというぐらい、日本人に愛されています。なぜそういう関係になっているのでしょうか。実は最初に日本に惚れたのはドラッカーのほうなのです。だから相思相愛なのですね。
ドラッカーの若いころは、ちょうどナチスドイツの台頭した時期に重なります。彼がドイツの大学で無給の助手をやって、その後新聞記者となり、論説員も兼ねてフランクフルトで活躍していたころのことです。それまで選挙のたびに負けていたナチスですが、自由党系の議席が増えたことに危機感を持った右翼や貴族階級に支援されて、1933年に保守連合、右翼連合がつくられ、そこで少数与党としてナチスが政権を握るわけです。そして政権を握った途端に、支援してくれた保守系議員をどんどん粛正し、一人勝ちのかたちにしてしまったのです。さらに大統領と首相を兼ねる「総統」というポストまでつくって、ヒトラーがその総統になってしまいました。
そこで、ドラッカーは「自分はもうここにはいられない」と思います。ドラッカー自身はウィーン生まれのオーストリア人で、フランクフルトで活動をしていたのですが、ナチスを逃れてイギリスに行きます。そしてイギリスで、その後のドラッカーの人生を左右する3つの出会いをします。奥さんのドリスとの出会い、ケインズとの出会い、それから日本との出会いです。

ドラッカーは、フランクフルト大学の4年生のときに、教授の代講として、ドリスさんを教えました。そのドリスさんと、ロンドンのピカデリーサーカスの長いエスカレーターですれ違って再会したのです。両方が相手に気づいて、あわててエスカレーターを乗り換えたために、またすれ違い、そういうすれ違いを何回かやって、やっと出会えた。そこで、恋愛関係に発展しました。そのお相手が、今95歳の奥さんです。まだ、テニスをやっているという元気さです。 それから、ドラッカーはケインズの授業を聴講しました。そこでケインズが言っていることや学生が考えていることは、みんなお金のこと、お金と物の関係についてでした。そこでドラッカーは、「自分が関心をもっているのは、社会と人間だ」と自覚したのです。その頃、ドラッカーはマーチャント・バンクに勤めていたのですが、辞めてしまって、あてもないのにドリスさんと結婚してアメリカへ行きます。大学の非常勤講師をしながら、地方を回って講演をするという、食べるのもやっとのような生活に入りました。
そして、ロンドンでの3つ目の出会いが日本でした。ある日急に雨が降ってきて、近くの建物に飛び込んだら、そこで日本の水墨画展をやっていたのです。ドラッカーはその時に、日本画に恋をしたと言います。彼の日本画コレクションは素晴らしいものです。日本のデパートで巡回展示したこともあります。
先々週、ドリスさんが来日したときに聞いた話では、ドラッカーは情報についていろいろ言っているのだけど、動く情報は、嫌いだったというのです。びっくりしてしまいました。「動く情報は大嫌い。情報に振り回されるのは嫌い。自分がじっと見るのがいい。だから、日本画が好きなのだ」と言っていたそうです。ドリスさんによると、ドラッカーはテレビは、一切見なかったということでした。
いずれにしても、彼はそのような絵を生み出す日本が好きになりました。なぜ日本画が好きかというと、「空間を描いているからだ」と言うのです。モノとモノの間を描いている。日本人のそういう感覚は、論理ではなく、知覚(Perceive)の世界から生じている。つまり、日本人は右脳において優れていると言います。
ですから、駐日大使のライシャワーさんが、「日本人は分析力と構想力が劣っているようだ」ということを書いたら、すぐドラッカーは、「しかし、西洋でそういう哲学体系が構築されていた当時、日本では知覚の華たる『源氏物語』があったではないか」と言ってくれました。日本人のそういう感性を、彼は愛したのです。

ドラッカーを触発した明治維新と日本文化

上田惇生さん

上田
そして、彼の目にはもうひとつ、日本の明治維新の姿があったのです。先ほど申し上げました1933年のある日、フランクフルトで大学の教授会がありました。「ナチス・コミッサール(国家社会主義人民委員)」なる者が赴任してきて、大学の最高のポストに座るわけです。その時に、「お前らのなかで党の言うことを聞かない者は、全員収容所行きだ」と、学部長たちを指差して宣言をする。そういう場面を彼は見たのです。彼は、ドイツを去る決意をしました。その夜、新聞記者仲間でナチス党員のラインホルト・ヘンシュという人が、ドラッカーの下宿を訪ねてきて、「辞めてウィーンに帰るそうだが、そんなことはしないで、ずっとこのままいて手伝ってくれ」と頼みました。そして、「自分は大学とフランクフルトの全新聞の面倒を見なければならないので、この新聞のほうは君に頼みたいんだ」と言ったのに対して、ドラッカーは「私はもうウィーンに帰る。それからヨーロッパ大陸も離れるつもりだ」と答えます。その時、ヘンシュは、何度も「自分たちは世直しをしたいんだ」と言いました。

その「世直しをしたい」というのを聞いて、ドラッカーの目には、ヨーロッパがどうなってしまうかが見えたのです。ナチスは、「自由に経済活動をやればみんな豊かになる」というブルジョワ資本主義は嘘だ、「生産手段を資本家から取って、労働者に回したらみんな幸せになる」というマルクス社会主義も嘘だと言っていました。確かに、その2つは相反するもののようでありながら、どちらも経済至上主義という点では同じです。ですから「脱」経済至上主義のためには国家社会主義しかないということで、ナチスが台頭し、ヘンシュたちがファシズムにすがることになりました。彼らは「世直しだ」と言って、国家社会主義を本気になって担っているわけです。日本でも二・二六事件、五・一五事件の青年将校たちは本気で世直しだと思っていました。それと同じことです。その「世直し」によって、これからヨーロッパがどうなるかが、ドラッカーの目にはありありと見えたのです。
ナチスは絶対に権力を握るだろう、と彼は考えました。なぜならば、同じ考え方をしている人間は、フランスにもイギリスにもたくさんいるからです。民主主義に反するということで、フランス、イギリスの今の政権はナチスに同調しないけれども、ナチスに対して徹底して闘い抜くだけの力はないと、ドラッカーの目には見えました。彼の目には、ヨーロッパを席巻するナチスの姿が見えました。そして同じように、荒廃したヨーロッパも見えたのです。「ナチスは負けるだろう。負けた後のヨーロッパは荒廃するだろう。そこから立ち直るには何が必要か」という視点から歴史を読み直したときに、彼が見つけたのが明治維新だったのです。

明治維新から彼が学んだのは何かというと、文化です。文化を離れて社会の発展はないということです。さらに、ドラッカーが目を見張ったのは、明治維新は日本の西洋化ではなかったということでした。日本が成功したのは、それが「西洋の日本化」だったからです。ペルシャはペルシャの西洋化を目指し失敗し、インドも西洋化を目指して失敗した。でも、日本だけは違いました。これがドラッカーの明治維新論です。二年ほど前、NHKスペシャルでも紹介されていました。
ドラッカーは、日本の戦後の復興を見て、そこからマネジメント上いろいろなことがわかったとも言っています。実は、終身雇用や年功序列を制度として確立する上で、日本の大企業の経営者に対して助言をしていたのがドラッカーだったのです。「人間は社会的な存在である。絆が要る」というのが、その理由でした。ドラッカーは「もし日本がもうちょっと柔らかい組織をつくれたらよい。会社主義は行き過ぎた。しかし、それをもっと柔らかなものにし、より開放したものにするならば、それが世界のモデルになる」とまで言っています。
その言葉を、ドラッカーは自分の著書の日本版への序文ではなく、本文に書きました。『明日を支配するもの』というドラッカーの最後から2冊目の本の本文に書いています。ブラジル人や中国人や韓国人が、そういうところを読んでどう感じるだろうかとも思うのですけども、そのくらいドラッカーは日本に期待していたということです。

構成:萩谷美也子

(次回に続く)

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