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2007年11月16日

【林衛の業界探求シリーズ(3)】第二回 「技術者からマネジメント、ビジネス創出へ」

好きなことに挑戦できた電気計算部門での日々

渡辺道人さん


ご経歴を拝見して感心いたしましたのは、渡辺さんは一貫して情報部門に勤務されてこられましたね。これはむしろ珍しいことだと思います。

渡辺
ずっとではなく、情報部門にはいり15年ほどたったとき、R&D部門に移りました。さらにその関連ソフト会社もふくめ、計20年ほど、その系統にいました。


そのときも顧客向け商品関係のソフト開発担当をなさっていたということですから、ソフトウエアから離れたというわけではないのですね。

渡辺
そうです。ただR&D部門という、情報部門とは目的や価値観が全然違う部署での経験は、私にとって大きいものでした。


それまでいらした電子計算部門というのは、どのような雰囲気のところだったのですか。またそのR&Dに行かれたときの驚きというのは、どういった種類のものだったのでしょうか。

渡辺
最初に配属された電子計算部門は、基本的にサービス部門であり、また全体がチームで仕事をするという意識が強く、和気藹々としていました。いいことをやれば、みんながそれを利用しようというような。
一方、R&D部門は自分の作るものが世界一、世界初を目指すということで、基本的に競争社会で、個人主義的でした。
電子計算部門も、当時はできて間もない若い組織で、進取の気性に富んでいました。私が入る前の話ですが、富士フイルムは昭和39年ごろ、製造業では日本で初めてのオンラインシステムをすべて自社で構築した会社です。そのシステムも非常によく考えられていて、製品の販売・物流の伝票ごとの処理ロジックを抽象化し、プログラムと外部テーブルで実現していました。プログラム量や必要メモリーを抑えたいということからでしょうが、業務の本質が考え尽くされていたし、システムのメンテナンスの多くはテーブル修正で済む、とても効率のいいものでした。「プログラムの中にいろいろなものを持たないシステムとする」という思想が非常にはっきりと打ち出されており、私も大変驚かされました。
入社後、最初に上司から、「似たようなプログラムばかり書かないですむように、ノンプログラムでできるようなシステムを構築するように」と指示を受けました。昭和46年には、すでにそういうことを試みようとしていた部署でした。


それは極めて早いと思います。IBMsystem360アーキテクチャですね。

渡辺
ええ、360です。入社後最初の何ヶ月かは、実習として原材料のアプリケーションを担当し、見よう見まねでプログラムを書いていました。その後すぐ、四国電力さんが開発した、レポートをノンプログラムで作れるパッケージソフトの普及担当になりました。ソースも提供されていたので、解析させてもらったのですが、コボルやアセンブラなどのプログラムの中に、汎用ソフトをつくるための様々な仕掛けがあることがわかりました。なるほど、こういうことになっているのかと。それを自分たちで勉強をして、「じゃあ俺たちも作ろう!」と、指導者も何もなしで試行錯誤の開発をしました。


私も経験がありますが、そのような経験は技術者として、非常に面白いことですね。

渡辺
ええ、とにかく面白かったです。


それは何名ぐらいのチームでしたか。

渡辺
ほんの数名でした。中心になっていたのは2名か3名だったと思います。そういった中からAUTOという運用管理のソフトが生まれました。後に商品化されてA―AUTOとなったものです。


A―AUTOはオペレーションの自動化のソフトとして有名です。御社はその会社に権利を売却したのですか。

渡辺
ちょうどADABASというデータベースを導入して、私がそのころ使い始めていたのですが、それを販売していた、現在のビーコンITさんが目をつけて「このAUTOというシステムをうちで販売させてほしい」と言ってきたのです。私たちがつくったのは、自社で使うためのシステムでしたから、それを汎用化して他社に導入する部分はビーコンITが行いました。そのころはライバル的なソフトがいくつもありましたが、粘り強くやられて結局A―AUTOだけが生き残りました。
いまは運用ソフトを扱う部門が独立してBSP社となっていますが、さまざまなOSのもとでいまなお売れつづけています。


渡辺さんは、とてもすばらしいSEだったのですね。

渡辺
いえ、私の下にいた人間が中心になって開発したんです。ほんとうにソフト開発の鬼と言えるような男で、私はその周辺をサポートしていました。そういったことをやらせてくれ、ビーコンITさんと実際の交渉をしたそのころの上司が今、富士フイルム本社の専務でCFOをしています。
先日「A-AUTO、お陰さまで30年」という記念イベントに、そういったメンバーを「生みの親」として呼んでいただきました。嬉しかったですね。


この時代に電算部門に配属された人は、ほんとうに優秀な人が多かったと思います。私たちの時代ぐらいまでは(笑)。

渡辺
「誰もできないことをやろう」という気概がありましたね。


変わったことをやっても怒られないと言いますか、もともと新しすぎて、上にも何をやっているか分からないのだから、技術者が好きに取り組めた時代です。楽しくてしょうがない、夢のような世界でした(笑)。

渡辺
今の技術者は好きなこと、枠を外れたことを考えなくなっていますね。そういうことが難しくなっているのでしょうが、要求されたことしかやらないのは、面白くないと思っています。ちょっとかわいそうです。


そうですね。でも、渡辺さんには、これから社長として存分に腕を振るわれるという楽しみがおありです。

R&Dとのカルチャーギャップに悩む

林衛


R&Dに移られたときには、全く違うカルチャーに遭遇したのですか。

渡辺
ええ。でもその前に一回、同じ部ではありますが、工場のシステム部門に移りました。神奈川県の足柄工場です。そこでも「工場というカルチャーはだいぶ違うのだな」という体験をしました。R&Dに移ったのはそのあとのことです。


工場もまた違うカルチャーを持っていますね。

渡辺
特に若い人は、製造業であれば、工場勤務のような現場に近いところを一度体験したほうがいいと思います。工場は安定生産、そして「品質とコスト、安全」、これが、何よりも優先されます。非常にしっかりとした考えをもった現場の方たちが使命感を持って取り組んでいて、そういう人がユーザーです。職住隣接、ユーザーとも近い。素朴で仲間意識も強い。作るシステムの働きが目に見えるし、そういう意味でも面白いです。
工場に移ったのはは、「全部、東京のIBMのコンピューターと互換性のあるシステムにしよう」というプロジェクトのためです。生産系のシステムを互換性のある富士通にして、オンラインシステムをつくるのですが、両方合わせてまるで一つのオンラインシステムのように動くようにしたい、というのが、そのころの私の理想とする形でした。


それは、けっこう恐ろしいことを考えられていたのですね。

渡辺
両方のコンピューターをつないで、工場系の端末から営業系のオンラインシステムにデータが渡って、アウトプットは自然に隣の端末プリンターに出るようにする、そういうことをアプリはほとんど関係なく、手品のように、今でいうミドルウエアだけでできるようにする。そういうことばかり一生懸命苦労してやりました。そのころは2台のコンピューターをつなぐだけでも、大変な思いをしたのですが、面白かったです。
当時は先端的なアイディアだったと思いますが、いまや当たり前になってしまいました。その後のインターネットの進歩やネットワーク技術の進歩の素晴らしさを感じますね。


だいたい80年ごろの話ですね。

渡辺
ええ、そのころ、「社内のコンピューター関連のことはだいたいやり尽くした」と考えて、当時の部長とも「われわれはこれから何やっていこうか」と話をしていたのです。いまから思うと思い上がっていましたが。「それでは、エレクトロニクス化がおしよせる機器関係のソフトを作ろう」ということで、最初はシステム部門の中にいて開発しようとしたんです。しかし経営トップからそれは駄目だろうということで、機器開発センターに移ってやることになりました。いま思えば当然の判断だったと思いますが、これにはまいりました。
商品のソフト開発のために、工場から東京にもどっていろいろな会社から中途採用を集めていた時に、突然、こういうことになったので、小田原のさらに向こうまで中途採用したメンバーを連れて行くことになったわけです。当時の開成町の宮台というところは、先ほどの足柄工場の近くで、かなりの田舎です。それまで都心にいたメンバーを連れて行ったのですから、お酒の席で「話が違う!」と涙を流す人がいたり(笑)と、なかなかたいへんでした。


でも、そういう不条理を体験されたのは、非常に良いことだと思います。

渡辺
私が38か39歳ぐらいのときですから、そろそろ自分はプログラム開発の現場から離れる年齢かな、と思っていました。そういうときに、突然マイコンやUNIXの世界に変わったわけです。R&Dとか、商品開発というところは、システム部門とは、価値観も考え方もまったく違いました。しかも技術も違います。
それまでの私は、技術に多少の自信があったのですが、面食らいました。もう「これは若い人間にかなわない」と思って、マネジメント系に転じることにしました。
R&Dの人から見れば、東京からチームを引き連れて来て、「その割にたいしたことはないな」という感じだったでしょう。一部を除いて大型コンピューターしか知らないメンバーばかりですから、マイコンのことなど分からないのです。しかしそれよりも、商品開発というものが、どういうものかがわかっていない。
私たちは得意分野で力を発揮する前に、まず基本的なことを知らない状態だったわけです。


ちょうど85年から90年ぐらいというと、私は「非常に複雑なシステムをどう開発してマネジメントしたらいいか」という勉強のために英国に行っていまして、目から鱗の時代でした。バブルの前の80年代というのは、かなり会社や技術の変化がありましたし、会社も体力があって変化に対する準備に我慢できた時代です。そのころ渡辺さんがじっくりやられた仕事で、今につながっているものはありますか。

渡辺
今につながっていると言えば、そのころまずエレクトニクス化があって、デジタル化してきたわけです。そこには、データベースのシステムであったり、制御のものであったり、みなソフトが必要です。しかしR&Dでは、まず要素技術が中心で、それがないと差別化できない。それができたら、「もうできた」と思う傾向がありました。どうも彼らから見ると、ソフトというのは自然現象を相手にしてないから、簡単につくれるものだと誤解していたようです。


自然現象を相手にしていないというのは間違いではありませんが、「そんな考えでは上手くいかないぞ」(笑)とソフトの恐ろしさを教えないといけないわけですね。頭の中でできることであっても、実際にやってみるのは非常に難しいものですから。

渡辺
そういうところはなかなか理解されなくて、話が噛み合わなかったのです。


それは話がかみ合わないでしょう。メンバーの酒の量も増えるでしょうね。

渡辺
説教部屋みたいなところへ入れられたこともあります。


誰が誰を説教するのですか。

渡辺
商品開発の責任を負っているトップから怒られるのです。納期どおり進んでいないと。随分難しい、やってみなければ分からないようなこともやっていたのですが。機器開発の文化では「士農工商・メカ・エレキ・ソフト」と言って、ソフトは一番地位が低いんですよ。冗談ですが、そういうところはある。


私は凸版系の会社でしたから、われわれは「士農工商・印刷・ソフト」といっていました。要するに最後がソフトであることだけは確かです。

渡辺
大きな制約があるほうから物事を決めていきますから、どうしても「ソフトなんて何とかなるだろう」ということになってしまうのです。前からソフトをやっている人たちもそれに慣れきっているから、「そういうものだ」という枠組みができているわけです。そうすると、非常に難しいことを要求されているのに、決められた予定通りにいかないと大変なのです。私が代表して叱られに行きました。いまから思うと、もう少し議論をすればよかったかな、と思います。でも、大きなシステムのサブシステム連携をコントロールするミドルウェアを開発したり、ソフトウェアエンジニアリングを導入したり、みんな本当によくやってくれました。


かなりご苦労されたのですね。そういったカルチャーの違いを乗り越えられるかどうかが、成功の鍵になるような気がします。

渡辺
R&Dは「人と違うのは何か」ということにとてもこだわります。新入社員で入ったときから、何か発表すると「お前のアイディアは今までのものと何が違うのか?」と質問されます。独創性という意味でこれは必要なことですが、そうするとわずかでもいいと思うと、前の機種と全部を変えていくことになります。何か変えないと、良くなったと思わないわけですから、一つ作るごとにやり方を変える文化だったのです。
システム部門出身の私たちは、同じものをいかに使いながらやるかという、全体最適の考え方でやっていきましたが、そういう考え方があまりなかったのです。それぞれに機種ごとに中で競争したりしていました。


それは非常に効率が悪いですね。

渡辺
それが原動力になっていた部分もあるのですが、今は「それではいけない」という考え方になってきました。製品がソフトリッチになってきていますので、R&Dも変わりつつあります。


渡辺さんはその先兵として、すり合わないものもすり合わせるお立場だったのですね。個人的には嫌な思いもされたでしょうが、その仕事をやりきられたことが、非常にご自身のためになっていると思います。おそらく、もう一回その時代に戻ろうとは思われないでしょうけれど。

渡辺
研究とか商品開発というのは、激烈な競争です。1日でも早く、少しでもいいもの、勝てるものを作るためには、社内でのリソースの奪い合いもする激しい世界です。負けたらしょうがない。しかし、厳しいけれど、企業の存在価値そのものを作り出すという喜びは大きい。
それに比べると、社内のIT部門は、きちんとやればほぼ確実に成功し、感謝もされる。部門内は利己的なところは無く、互いに協力的です。しかし、その分どこか甘いところがある。
R&Dでは直接手を下せないというもどかしさはありましたし、カルチャーの違いに驚いたこともありましたが、私としては両方体験したことで、全体感を持って多面的に見られるようになりました。

インターネットを使った新規ビジネスを立ち上げる

渡辺道人さん

渡辺
私が今のように会社の経営という立場になる前に立ち上げたシステムが、インターネットでの写真サービスです。その当時、デジタルカメラは出始めてはいましたが、富士フイルムはアナログ写真の可能性をデジタル技術でさらに発展させるという考え方、いまから思えば延命かもしれませんが、そのサービスを展開することにしたのです。アナログの写真をスキャニングしてインターネットに載せ、後で注文するビジネスがアメリカにできたというので、これは面白い、われわれもそれをやりたいということで開発したのですが、これは非常に大変でした。まだ通信ネットワークも弱くて遅い時代でしたし、コンピューターの能力も低いし、そんなときに理想を追求したシステムを作ろうとするわけですから。


それに画像は重いですからね。

渡辺
ええ、富士フイルムがやるからには、高画質を売り物にするわけですからね。まだADSLも光もない、アナログ回線、せいぜいISDNの時代、画像をネットで扱うと、非常に重いわけです。そのような状態でどのように収益を上げていけばよいのかという、ビジネスモデル面の問題がありました。まあ、最初は実験的なサービスということではあったのですが。
しかしその前に、そもそも十分成熟していない技術で、システムをどのように構築していけばいいのかという問題があります。ちょうどネットでウェブ技術が出始めたぐらいのころですから、開発パートナーをお願いした協力会社も初めての経験で、手探りでした。


インターネットの写真サービスは、今では当たり前のように使わせていただいていますけれど、実際の開発はたいへんだったのですね。

渡辺
最初はネットワークの、インターネットの仕組みさえつくればいいかと思ったのです。しかし、ネットで注文を受け、プリントを受け取るお店でお金を払っていただくわけですから、とてもそんなものではすみませんでした。お店やラボの人がみな、全く今までと違う動きをすることになるわけです。当時はお店の人はインターネットなんて分からないので、そういった人たちまで含めてビジネスの仕組みをつくらなくてはならないところが、非常に難しかったですね。
最初に実験としてお客さんに無料サービスしようと思うと、写真店さんも巻き込むので、後でお店やラボに正しくキャッシュバックする仕掛けが必要だったり。


新しいビジネスの創造ですね。技術基盤がないともちろんできないことですが、ビジネスをどうやって成功させるかという部分が一番たいへんです。

渡辺
そのころ、ちょうどビジネスモデルという言葉が普及し始めていて、「ああ、これはそういうことなのか」と(笑)、心から納得しました。


苦労すると、言葉の意味が自分に響きます。何かそのときのご苦労を乗り越えられたコツや工夫のようなものがおありだったのですか。

渡辺
新しいものをつくるといっても、従来の世界との接点がたくさんあるわけです。まず、そこをよく理解することが大切です。われわれ世界のことだけ考えても絶対上手くいかないですから、いろいろな話を聞いたりして、「ああ、そういうことか」と少しずつ理解がつながってくると、何か答えが見えてきます。弊社も過去にいろいろ苦労した経験があります。その経験をわれわれが上手に取り込んでいかないと、新しいビジネスはできないのです。
富士フイルムの中でも営業技術部門の人たちやセールス担当者がいます。最初は、そういった人たちは直接このシステムには関係ないだろうと思っていたのですが、実はその人たちが協力してくれることや、持っている情報が非常に重要なのです。その人たちが「分かった。じゃあやろう」と思ってくれることが絶対に必要で、そこを分かってくれると、難しいシステムも前に進み出すのですよ。


そのネットワークサービスには何年ぐらいの間、開発に携わられたのですか。

渡辺
私が直接やったのは1年半くらいです。そのあと富士フイルムソフトウエア(FFS)という会社に経営者として移って、そこで具体的な開発をするようになってからも、開発メンバーは毎年苦労していました。
いまから思えば当たり前なのですが、このサービスが実際に成り立つようになったのは、画像がデジカメになり、ADSLが普及したころからです。デジカメ写真をインターネットで送り込んでいただき、ラボがプリントして返すわけです。
もう一つ、大事なサービスとしてポストカードがあります。写真を送って、それに文字やフレームをつけたり、自分でデザインした原稿を印画紙のポストカードにして渡すサービスです。この、年末のポストカードが毎年たいへんでした。


そうですね。遅めに年賀状書き始める人が多いですから。

渡辺
そのポストカードに写真を張り付けるというような技術開発に、非常に苦労していました。しかもラボは年末のポストカードの収益が一番大きく、それ以外のときは落ち込むという状況に、だんだんと移行していたのです。


ピーク、アンダーピークがあるビジネスなのですね。

渡辺
そう、その差が激しいのです。処理能力とレスポンスには苦労しました。
もう一つ、ラボにとって唯一のドル箱といえるほどの大事な商売ですから、年末に合わせて新しい機能を必ず間に合わせる必要があります。その苦労は何年も続きました。


確かに、毎年何かしらバージョンアップしています。

渡辺
ユーザーから見ると「なんだ、このくらいの違いか」程度にしか思わないバージョンアップでも、社内では非常に苦労しているのです。ユーザーマニュアルを渡すわけではないので、UIは特に苦労しました。


面白そうですが、思うよりずっと難しいでしょうね。

渡辺
その通りです。


だいたい、そういった開発は思ったよりも難しいものなんですよ。

渡辺
最初は「こんなもの、お茶の子さいさいだ」(笑)と、あっという間に開発できると思ったのですが、それはとんでもない誤解でした。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

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