プロジェクトマネジメント、プロジェクト管理におけるポータルサイト

HOME > プロマネの勘所 > 【林衛の業界探求シリーズ(6)】第三回 ITの拡大期に経験した、密度の濃い日々

2008年8月18日

【林衛の業界探求シリーズ(6)】第三回 ITの拡大期に経験した、密度の濃い日々

浜松のグローバル企業という選択

渡辺 卓哉様


そのころには将来の進路は決まっていたのですか。

渡辺
ええ、山に登っているころには、もう就職が決まっていました。
もともとは浜松出身ですし、私は長男なので、なんとなく実家に戻って来ようとは思っていたのです。名古屋に残ってもいいかもしれないし、東京に行こうかという気持ちもありましたが、地元でグローバル企業というあたりがいいんじゃないかという感じでした。
遠州地方は、ヤマハ、スズキ、ホンダの創業の地ですし、実は豊田佐吉も浜名湖西岸の湖西市が生家です。記念館もそこにあります。グローバルにつながる風土があるのでしょうね。浜松ホトニクスもありますし。


経済学部卒でそこまで英語をやられていたのなら、銀行とか商社とか、他にも選択肢は多かったのではないかと思うのですが、なぜヤマハ発動機をお選びになったのでしょう。

渡辺
英語は汎用性があるので、必ずどこかで活かせるから、もう少し何かほかのことを見つけたいと思っていました。金融には興味がなかったですね。これは単純に好みの問題ですが、お金を扱うということ自体よりも、商品とかサービスのほうが面白いと思ったのです。
それに、ゼミの先生も中小企業論もやっていましたから「中小企業の強みを生かすというのも面白いぞ」という気持ちもありました。ヤマハ発動機は中小企業ではないですが、当時はここまで大企業でもなかったので、「ちょうどいいくらいかな」と。


当時、ヤマハ発動機の事業規模はどれくらいだったのですか?

渡辺
千億は超えていたとは思います。ただ、平均年齢は若くて、27歳くらいでしたね。若さと成長性が感じられたのです。


自分たちでどんどんやれる仕事も多いし、責任も持たされるだろうという期待があったのですね。

渡辺
ええ、それはありました。それに、輸出比率が当時から高かったですから。


それでは「もうここに決めた!」みたいな感じですか。

渡辺
ええ、かなり早く決まってしまいました。内定も早かったので。


思い切りがいいですね。迷いがなくて。

渡辺
金融は、ゼミの先生から「40歳後半、50歳を超えるとだいたい支店長は終わりで、それから先は出向になる」と聞いていました。それに「何百人も優秀な連中が集まっているところでやっても、あまり戦略的に得策じゃないな」と。


いろいろ比較検討はしていたのですね(笑)。

渡辺
銀行は確かにメーカーよりスマートに見られて、給料が高いかもしれないけれど、自分のキャリアとしてピンと来なかったのです(笑)。
商社には少し興味がありましたが、最終的に扱うものが、鉄になるのか小麦になるのかわからない。しかも、一つ決まると、そのままずっとそれをやりますよね。商社に入ると、自分が何の興味も持てないものをずっと扱うことになるのかもしれないわけです。
それだったらオートバイのほうが分かりやすいと思ったのです。オートバイには私自身、そんなに極端な思い入れがあったわけではありませんが、プライドがもてる商品だと感じたのです。

入社後の「修行時代」を無事クリア

林 衛


入社してからいろいろあったと思いますが、どのあたりからITに関わられたのですか。

渡辺
最初は、一年弱営業を経験するというキャリアパスがありました。営業といっても卸ですね。マリン製品は直売で、オートバイは販売店に卸すという仕事です。これは非常に勉強になりましたね。
やはり今までの世界と違います。二輪の販売店の小さいところになると、営業に行く先はパパママショップです。興味や話をする流れも違うし、商売上やはり、まける・まけないという駆け引きもあります、営業は本来あまり得意ではない分野なのですが、そういう丁稚奉公的なとこを経験したのはよかったです。


「世の中ってこんなふうなんだな」と実感しますよね。

渡辺
普通それを2、3年はやります。そこで生き残ると、あとはどういう目にあっても、根っこのところは大丈夫です。逆に、そこで脱落すると、やはり何やっても駄目のような感じがします


最初に泥臭いところをやるわけですね。

渡辺
その次の配属がもうIT部門です。当時の電算室でした。入社して10ヶ月経ったくらいでした。


それからはずっとIT部門ですか。

渡辺
そうです。プログラムを1年半ぐらいやってから設計に入りました。3、4年経つと、サブシステムぐらいは、ある部分の責任を持ってやっていました。そのあたりから面白くなってきました。


3年目ぐらいで設計ができるようにならなかったら、もう見込みがない。頭が悪いと言われるか、センスがないと言われるか、いい加減と言われるか、という時代でしたね。

渡辺
私は全くの初心者でしたが、一応経営学を学んでいましたので、経営的背景とか、業務とはなんたるかというのは、なんとなくは理解できたのです。


業務知識が少しでもあるというのは、有利ですよ。

渡辺
卒論も組織論だったので、多少関係があるのです。業務の形態によって組織の最適は違うのだという内容の論文でした。


ラインとスタッフの配置だったり。

渡辺
そういう意味では、イントロ的なものは頭に入っていたのかもしれないですね。


70年代からずっと業務系システムをおやりになったのでしょうか。生産管理も含めて。

渡辺
人事、経理、販売、物流あたりです。生産管理は直接やっていないですね。

IT企画での印象的な出会いと仕事

渡辺 卓哉様

渡辺
プロマネ的なことは32歳ぐらいでだいたい終わって、そのあとIT企画に行きました。
私が総務系の仕事をやっているときに、アンダーセンを入れて、数年かけて生産管理の仕組みを作ったのです。その仕事が一段落をして、当時の流行だった全社のシステム化計画が持ち上がりました。それを「アンダーセンに頼もうか」ということになり、私が事務局で、当時30歳くらいのコンサルタントのMさんと一緒にやったのです。優秀でした。


優秀だと思いますよ。

渡辺
いい刺激になりましたし、私は「これが平均的なコンサルタントのレベルだとすると、自分もスキルアップする必要があるな」と感じました。もっとも、Mさんは後年アクセンチュアの社長になる位のトップレベルの人だったのですが。
そこから第二ラウンドに入ります。システム計画のフェーズ・ワンは、全社でこういうプロジェクトがほしいという、いわば昔のIBMのBSP(ビジネスシステムズプランニング)的なことをやって、23個くらいプロジェクトを切り出しました。それをどうやって実施するかと、アクションプランを考えたときに、BSPでは、林さんもご存じのようにデータと機能が問題になります。


マトリックスですね。

渡辺
「これは一個一個やっているとまずいんじゃないの。理屈からいくと、やっぱりデータを先にやらないといかんね」ということがすぐ見えますよね。


一瞬で見えます。見えない人は見ませんが(笑)。

渡辺
「ちょっとこれは真面目にやらないといかん」と思いました。そういう問題意識を持っていたら、データ総研がちょうどできた頃で、タイミング良くセミナーDMが来たので参加しました。そのときから講師をやられていた創業者で社長のTさんに「ちょっと手伝って下さいよ」と話を始めたのです。私は当時から「個々のプロジェクトじゃなくて、全社の共通データをどう扱うかってことだから、トップの人にやってもらわないと困るんですよ」と、かなりTさんにべったりでした。もちろん4、5人でそれぞれ分担し、最終的に全社のデータ企画方針として報告書をまとめ、これに基づきいくつかのプロジェクトを切り出して推進するシナリオができました。この時期にデータ系インフラ整備に着手できたのは大きかったです。Tさんと後年話をしても、やはり良い仕事になったと思います。


日本のITの歴史の中でも、この時代はITの仕事の規模が、急に拡大して複雑化してきて、みな「確信はあるんだけれど経験がない」という状態だったときですね。渡辺さんはその時期をよい人と仕事ができたわけですが、それでもけっこう苦しかったと思います。先が見えなくて「いつになったら終わるんだろう」と。

渡辺
そうそう(笑)。


始めると先がだんだん見えてきて、「こんなことやってみようか」となってくる。その感覚は、その時期のその仕事でないと経験できないでしょうね。
その前に、渡辺さんが準備段階の結果として、ほぼゼロからいろいろな経験をされて、ある程度ひとまとめのシステムをやられていたでしょう。だから中まで全部分かっている。

渡辺
ええ、ディテールは当然分かっています。


細かくなったらどうなるかが分かっていて、大きい仕事に取りかかった。そういう経験をされている人は、非常に少ないと思いますよ。

渡辺
そうですね。プロマネ時代にも、データをちゃんとしないといかんなというDOA感覚はありましたね。方法論も、一応アンダーセンの持ってきた方法論を横に見ながらやっていました


だいぶ手直しもしたりして。

渡辺
ええ。でも、MさんとかTさんとか、トップレベルの人はやると早いですよ。


無駄なことに長い時間をかけないし、間違ってもすぐ気が付くから、それは早いですよね。そういう組み合わせは、もう二度とないのではないでしょうか。

渡辺
そのとき面白かったのは、実際につくるのは別として、概念モデルはこうで、コードはこうすべきだとか、課題はこれで、と考えて行くわけですが、「移行の問題があるから、どこかでチャンスを見つけてやろう」ということで、「ひとつ、製品だけはまずやるか」と、共用製品DB構築のプロジェクトを立ち上げました。まずは、国内だけだったのですが、数年たってグローバルでの共通化も実現できました。


それも面白いですね。

渡辺
ええ。その途中にアメリカの工場のプロジェクトの話が来て、いよいよ私もグローバルになりました(笑)。それが34歳ぐらいですね。だからものすごく密度が高いのです。。アンダーセンのアメリカ人コンサルタントが、最初日本に2ヶ月来て、上流工程を一緒にやりましたが、アメリカ人と議論して、昔のスキルも活きましたね。
その後、活動がアトランタに移り、向こうに2ヶ月くらい長期出張し、いよいよITと英語が重なってきて、これもまた面白かったですね。


融合させた(笑)。

渡辺
融合してけっこう役に立ちました。アメリカ人と議論すると、ディベートも役に立つし。まだ実力ついていなくて、英語そのものもそうだし、ロジックも説得が難しいこともありました。ただそういう手法を身につけていたので、このプロジェクトでもそれなりに活動できたかなという感じですね。


そこは少し苦労されたでしょう。するするとはいかないと思います。

渡辺
私の担当は財務と原価で、商習慣とか、どの辺りまでやればいいのかについては日本と感覚が違ったので、苦労しましたよ。


生産系では、部品表で討ち死にされる人が、けっこういらっしゃいますよ。調達とか甘く考えると。

渡辺
工場をまだ建てる前で基準がなかったので、ある程度仮説でどんどん作ってしまいました。実際の導入のときは、私はもういなかったのです(笑)。再び、共用データプロジェクトにもどっていましたから。
そうしたら、楽器のヤマハ(株)に出向する話が出てきました。36歳くらいのときですね。

(次回に続く)

構成:萩谷美也子

| トラックバック[0件]

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://www.promane.jp/blog_manager/mt-tb.cgi/592

↑ このページの先頭へ